【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第7回「指輪」
窓を開けると海の風が入り込んできた。潮の匂いと、夏の空気の重たさを顔に受ける。私は、ただそれを感じている。波折り、潮の満ち引き、季節の巡り。私を正常にするバイオリズムはこんなにも近くにあったのだ。
人生で一度は海の近くで暮らしてみたいなんて思っていた。海を見ているだけで、何かしなくても許されるような気がして好きだったから。けれどそれは「ピザ屋の彼女になってみたい」のと一緒で、まあなってみたいけど、別にそうじゃなくても死なないくらい。もういい大人だから、そう思えばこのくらいの夢は無かったことにできると知ったのは最近のことではない。
もういい大人だけれど、大人をうまくやっていくのは難しかった。見栄を張るように高く積み上げた知識も洋服も、人間関係だって不安定なジェンガみたい。一つでもとられたら軽い音を立てて崩れてしまいそう。
「そのくらいうまく受け流さないと」「職場で嫌われないための処世術5選!」日常に転がる小さな言葉につまずいてみんなと同じように進めなくなった私は、焦りと不安でどんどん神経質になっていった。そして、とことん日々になぶられ続けたある日、バイオリズムが馬鹿になったのだ。
恋人と別れたからじゃない。きっと引き金なんて何でもよかった。珈琲がシャツに飛んだり、駅でかかとを踏まれたり。仕事をやめたのはそれからすぐのことだ。
仕事をやめた私は、さっさと新しい家を探し、てきぱきと引越しの準備やその他諸々の手続きを済ませることができた。布団から出られないような休日を過ごしているよりも、こっちのほうがずっと大人らしい。そして毎朝泣いていた最寄り駅から一時間半ほど離れた街に一ヶ月足らずで移り住むことができた。
広くない部屋も、ユニットバスも、築年数も。誰かのことを気にしないで、自分が本当に必要な条件だけで探せた部屋はとても居心地がよかった。なんと言うか、無駄がなくて肌なじみのいい下着みたいな感じ。
さっそく荷解きをしていると、ネイルポーチから懐かしい指輪が出てきた。母がくれたゴールドの指輪。前に貰った時、似合わないからといってしまっておいたのをすっかり忘れていた。
私が子供の頃、母の手は白くて細くて、とても綺麗だった。それから皺が増えて節が張って、ずいぶんくすんできたけれど、それでも力強く、その手にゴールドの指輪が馴染んでいるのが美しかった。だから、まだかつての母の様に白くて細い私の指にはどうも似合わなかったのだ。
久々に指にはめてみると、手荒れのせいかささくれのせいか、もっと似合っていないような気がした。それから自分の手を久しぶりにじっくりと見て、心と体がどれだけ密接に関係しているのかを再確認したのだ。
波の音をききながらふと携帯を見ると、もう17時を回っていた。ついこの間までヒールをコツコツと鳴らしながら歩いていた私が、今は薄いサンダルでペタペタと海沿いの道路を歩いている。ふくらはぎには足を踏み出す毎に砂が当たる。毎日のヒールも大変だったけれど、薄いサンダルも脱げないようにキュッキュッと力を入れなければならなかったので、これもこれで大変かもしれないと思った。
「仕事落ち着いたら海沿いに住んで、犬とか飼いたいよね~」友達とそんなこと話していたけれど、まさか本当にそんなことになるなんて。いや、実際は思っていたのとずいぶん違ったけれど、とりあえず今はこれでいい。
20代前半の頃、私には何でもあると思っていた。口では「これしかない、あなたしかいない」と言っていたけれど、本当のところ、別にこの仕事じゃなくても、この人じゃなくてもなんて思っていた。けれど年齢を重ねるにつれて、キャリアを積むにつれて「本当にこれしかなくなる」ような気がした。それが窮屈で、怖くて、どんどんとプレッシャーになっていったのだ。だけど、今この歳で、丸腰で社会に放り出されたら、一体私に何ができる?うまくやらなきゃ、こんな生活でも守らなきゃ。
そう思う自分と、不器用でうまくやり過ごせない自分に追い詰められていたのだと思う。社会がそうしたのか、自分がそうしたのか分からない。けれど、それほど私にとって女性であることも、年齢を重ねることも大きなことだった。
遠くの浜辺で短パンの夫婦が散歩をしている。その隣には浜辺に似合わない小型犬を連れたおじいちゃんもいた。
「ひとりで生きるってほんとしんどいわ~」
けどひとり分でいい。今は自分ひとりのことだけ考えればいいんだよね。そう思うと、肩の荷がすっと下りた気がした。
帰りにリサイクルショップで自転車を買った。想像していたようなお洒落なやつじゃなくて、普通のママチャリだけど。店員さんに「綺麗な指輪ですね」と言われたのが嬉しかった。似合っているとか似合っていないとか関係なく、自分の素敵だと思うものを素直に身に着けられるのが嬉しかったのだ。
夜の海は想像よりもずっと黒くて、風が強く吹いていた。中学生ぶりの自転車だったから少し心配だったけれど、とにかく前に足を押し出し続ける。漕いで、漕いで、無心でそうやっていると案外身体が覚えていることに気が付いた。
それから自転車のサドルを少しだけ上げて、ペダルを思いきり踏み込んだ。
「処世術って何なんだよ!みんなして、傷ついてる方にスキル求めんな!ばーか!」
風でペダルは重たかったけれど、サンダルをかっ飛ばして、強く、強く漕いだ。大丈夫、私はちゃんと頑張ってきた。丸腰なんかじゃない。波の音と、風の音と、車の音。全部がうるさくて心地よかった。
舵を取る。周りは嵐のような人ばかりだから。飲み込まれないように、私は私を生きていたい。
リーガルリリー 海
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