【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第6回「爪切」
家の近くで蝋梅が咲きました。それは可愛らしいお菓子、あるいは文字通り黄色の蝋を薄くかためたような、とても魅力的な花でした。何より匂いが良いのです。甘い香り?いいえ、違います。枝、土、葉、それらすべての生気を包み込む優しい香り。その奥にツンとした柑橘系、いや、もっとラムネのように懐かしい香りを隠し持っていました。
私は目を閉じて深く呼吸をします。一度目は鼻腔を担う細胞一つ一つを揺すって起こすように、勢いよく。二度目はそれらが香りを分解して記憶と紐づけられるように、ゆっくりと。何度も繰り返すうちに、冷たい夜の空気は肺の迷路を突き破ってずっと隠してきた秘密の部屋を見つけました。扉にはこんな貼り紙がしてあります。
『ロマンスの理想形は何も起こらないことです。それだけの距離感が、この先ずっと続くことです。』
私は考えました。何を考えたかというと、ある人の爪の形です。まあるく、愛らしい、不器用な爪の形です。私は緩んだ口元に手を当てて、音を立てないようにその部屋から遠ざかりました。何も悲しいことはありません。
次の夜も、その次の夜も、蝋梅は綺麗に咲いていました。目を閉じて深呼吸する度、肺の奥に潜む扉の前に佇み、そして考えます。ある時は片側だけすり減った靴底について、またある時は奇抜な寝癖について。もっと言えば、その歩き方や寝相についてです。けれど、賢い私はそれらをこの先もずっとそばに置いておく術を知っています。だから扉に貼られた紙の言葉を何度も唱え、少しだけ泣きました。
それから長い時間が経ち、私もずいぶんと歳をとりました。
家の近くでは相変わらず蝋梅が咲いています。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と教えてくれた人は、昨日あの世へ旅立ちました。爪の形がおかしくて、変な歩き方をする人です。
私はポケットに忍ばせた爪切りで細い枝を切りました。左手に持つ小さな枝を大きな寿命の樹から切りはなす瞬間、いけないことだとわかっていながらも、最後かもしれないこの胸の高鳴りを止めようとはしませんでした。そして、誰にも気づかれてはいけない、と少女の様に走り出していたのです。夜風が気持ちよくて、涙が出るほど清々しい夜でした。
暗闇でひとり、柔らかな毛布に身を隠しながら小さな枝を抱きました。鼻を近づけると、優しくて懐かしい香りがまだ瑞々しく残っています。その花の香りを確かめる度に、生気に触れる度に、私はずっと昔の恋を思い出すのです。
それから、やっと終わった、と思いました。長すぎる恋でした。ちゃんとロマンスの理想形を手にしたのだから、もう十分。早くこんな私を「蝋梅は梅じゃ無いんだよ」なんて、笑って抱きしめて欲しい。そんなことを素直に祈れるのが嬉しくてたまりませんでした。それから三日ぶりの深い眠りについたのです。
蝋梅を抱えた少女が秘密の部屋の前に立っています。賢い彼女は馬鹿なフリをして扉を蹴破り「ずっとこうしたかった」と笑って走り出しました。
私は彼女に「それでいいのよ」と言いました。
リーガルリリー 海
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