【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第5回「牛乳」
「123…7、顔に7つ。左腕は6つで、右腕は確か2つ。いや、もうすぐ3つになりそうです。」
太腿、背中、首の後ろまで、彼女が見えないところは特に念入りに数えて報告した。
それから、薄くなっただの大きくなっただのという僕の補足まで細かく手帳に書き込むと、すぐに下着をつけて「ありがとう」と五千円札一枚を置いて出ていった。
ほくろの数を数えるバイトをはじめて三年が経つ。バイトと言ってもそんなことを頼むのは彼女一人だ。はじめは月に一度だったのが、月に二度になり、今では週に一度まで増えていた。僕の小遣いも増えるわけだけれど、それにしても月に二万円も払ってどうしてこんなことを頼んでくるのか、全くもって理解できない。
白い肌にぽつぽつと、不揃いの黒い点が浮かぶ。(とりわけ冬は牛乳の様に真っ白だった)甘い香水に誘導されて頭の中では牛乳とバニラビーンズが混ざりあったような、そんなことを思わせた。
彼女のお気に入りはどれも若くて小さくて色の濃いものだったから、右の肩甲骨にあるほくろが徐々に大きくなり輪郭が柔らかくなったことに気づいたときは、ひどく落ち込むのではと心配だったけれど、そのことを伝えると「そう」とだけ言って何とか腕を回し、愛おしそうに爪でなぞっていた。
やっぱりわからなかった。
真っ白な身体ではいくつか新しいほくろが生まれた。足の付け根と耳の後ろと、あとは胸の真ん中だったか。少しづつ濃くなっていくものを僕の裁量で認定してはじめて生まれたことになるのだけれど、その度になんだかとても神秘的な瞬間に立ち会ってしまったように感じた。
きっと初めての誕生日(もちろんほくろの)に彼女が小さな声で「はじめまして、愛してる」と言ったのを聞き逃さなかったからかもしれない。それから服を着た後、僕らは初めて一緒に珈琲を飲み、小さな祝賀会を開いた。
彼女は普通の女性だった。普通の、というより、ちゃんとした大人の女性だった。少なくとも僕が想像していたよりもずっと。愛想が良くて、年相応の話し方をして、僕との間に見えない壁をつくった。この人は背中に四つほくろがあって、腰の右側に一つ、左側に二つ。そんなことを知っているのが嘘みたいだった。
会話の途中、「嘘をつくのが上手い人って嘘がつけないフリするでしょう、そういうのってもう嫌なの」と言った。
彼女のことを少しだけわかったような気がしたけれど、やっぱりわからなかった。
毎晩、僕の頭では少ない情報で作り上げられた彼女が勝手に話し出していた。
「親もペットも私より先に死ぬでしょ。恋人だって勝手に離れていく。けどこの子たちはいつでも私のそばにいてくれる。私の身体で生まれて、生活の一部始終を見て、最後はこの身体と一緒に死んでいくの。結局信じられるのは、裏切らないのは自分だけ。」
思えば、周りにいる人間ではなく、どうして何の関係もない僕なのだろう。
彼女を勝手に‘寂しい人’にしてはいけない、そう思えば思うほどに、頭の中で饒舌に話し出して止まらなかった。
けれどこんなことがいつまでも続いているわけもなく、僕がきちんと就職をする少し前には、ぱったりと会わなくなっていた。
はじめは牛乳をコップに注ぐ度に彼女のことを思い出していたけれど、いつの間にか声どころかどんな顔だったのかさえ曖昧なものになっていたのだ。あれほど強烈な経験をしていたのにこんな風に忘れてしまうなんて、不思議でたまらない。
社会人になって何度目かの春がきた。
目黒川に覆いかぶさる桜が綺麗で、それを電車から眺めるのが唯一の花見というくらい、忙しい日々が続いていた。
車両に赤ん坊を抱いた女性が乗ってきてドアのすぐ横に立ったので、席を譲ろうと立ち上がると、柔らかな声で「大丈夫ですよ」と言った。
聞き覚えのある(いや、もっと曖昧で、正確に言えば聞き覚えのありそうな)声だったから不思議と視線を外せずにいると、どうやら抱いていた赤ん坊に桜を見せたかったのだろう、女性は目黒川を通り過ぎたあたりで丁度向かいの席に座った。
どんな顔をしているのだろう、そう考えるより先に目線は女性の顔を捉えていた。
それから目眩がして、すぐに顔のほくろを数えたけれど、牛乳みたく真っ白な肌には一つとして黒い点はなく、腕に抱いている赤ん坊をただ幸せそうに見つめているだけだった。
何度も感じた顔のおうとつや、肩の骨、爪の形までそっくりそのままあの時の彼女だったけれど、ただほくろだけが綺麗に消え去っていたのだ。
僕はそんな彼女を残念に思った。
心に収まるほどの小さな憤りと動揺が何度も目眩を誘い、記憶の中から引っ張られた裸の映像が消えるのをただ待つことしかできなかった。
彼女はあれほど愛した子どもたちを葬ったかわりに、この赤ん坊が生まれた瞬間「はじめまして、愛してる」と言ったのだろうか。
僕は自分がどうしてこんな気持ちになったのかわからない。
彼女とのことは、やっぱりなにひとつわからなかったのだ。
リーガルリリー 海
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