【インタビュー】平岡優也、新曲「H」で紡ぐ一途な想いと類稀なる音楽半生

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“通行人が足を止める歌声”というキャッチコピーで知られるシンガーソングライター・平岡優也が、自身6枚目のシングルとなる「H」をリリースした。20歳で秋田県から上京したのち、生配信とストリート・ライブという異なるフィールドを相互に活かして稀なる道筋を歩んできた9年間。最新作「H」はそんな平岡の歌声が心に染みるラブ・バラードであると同時に、“運命は自分の意志で変えられる”という彼らしいメッセージをも届けている。

今回、BARKSインタビュー初登場となる平岡優也に、その音楽半生と新曲について話を聞いた。

   ◆   ◆   ◆

▲平岡優也/「H」

■ネットとストリートでの出会いが織り重なっていく奇蹟
■「死に物狂いで音楽と向き合わないといけないという気持ちは常にありました」


──BARKSでインタビューさせていただくのは初めてですので、まずはアーティストとしての背景などを、お聞きしたいです。平岡さんはいつ頃、どんなふうに音楽に目覚めたのでしょう?

平岡:僕は秋田県出身なので、20歳までずっと秋田で生活していたんですね。元々歌うことがすごく好きで、学生の頃からカラオケボックスとかに好んでいっていたんです。そうしたら、18歳のときに母親がかりゆし58さんのライブのチケットを渡してきてくれたんです。本当は自分が行きたかったんだと思いますけど、僕と友達にチケットをくれて、ライブに行ってきなさいと言って。それで、秋田市内にあるホールに行って、初めてプロのアーティストのライブというものを肌で体感して、音楽は素晴らしいなと思ったんです。それが、本格的に音楽をやりたいと思うようになったきっかけでした。自分で音楽を作ってみたいなという気持ちになったんです。

──シンガーソングライターになりたいと思ったんですね。そこで目覚めて、ギターを弾くようになったりされたのでしょうか?

平岡:いえ、20歳のときに、まず秋田にいてはどうしようもないなと思ったんです。親元を離れるという意味でも1度広い世界を見たいなと思って、上京しようと決めました。それを親に話したら、父親も母親もいいよと言ってくれたんです。僕は4人兄弟で上に兄が3人いて、みんな高校を卒業したタイミングで1回秋田県を出たりしているんですよ。僕だけずっと出ないで20歳まで秋田にいたので、両親も他の世界を見るのもいいんじゃないかなと思ったんでしょうね。両親の許可が下りたので、東京に出てきました。

──ちょっと、すみません。上京するにあたって専門学校に入学したり、音楽業界にパイプを持っている人がいたりといったことは……。

平岡:一切なかったです(笑)。

──えええっ! なにもない状態で東京に来られたんですか?

平岡:はい(笑)。上京したけど、“音楽をやる”というザックリとした目標しかないじゃないですか。それで、だったらなにを始めたらいいんだろうと考えたんです。今は事務所に所属させてもらって、いろんな方に支えていただいて音楽を作っていますけど、そういう状態に至るにはどういう過程が必要なのかが全くわからなかった。それで、ネットで芸能事務所を調べたり、オーディションに応募してみたりするようになるんですけど、本当に自分がやりたいことが何なのかが定まっていなかったんですよね。音楽で食っていくといっても、マルチなタレント活動をしてその一環として歌うというのもあれば、作曲家や作詞家としてやっていく道もあるというふうに、いろいろあるじゃないですか。いろいろあることも上京してから知ったんですけど(笑)。

──な、なるほど(笑)。

平岡:そういう中で、僕はやっぱり自分で書いた曲を自分で歌って届けたいなと思ったんです。でも、曲を作ったことなんてなかったし、自分の歌唱力にも自信がなかったので、まずボイトレの学校に通うことにしたんです。そこで出会った講師の先生にどうなりたいのと聞かれたので、シンガーソングライターになりたいですと応えたんですね。シンガーソングライターだったら楽器がなにか弾けないといけないよねということで、その先生はピアノをやっていて、ピアノを教えてくれることになったんです。ピアノで“ドレミファソラシド”から入って、コードというものを教えてもらって、それで楽曲というのはこういう構成でできて成り立っているんだということを感じ取って。そこからでしたね、自分のオリジナル曲を作ってみようと思ったのは。

──ピアノは教わりましたが曲の作り方を教えてくれる人はいなくて、自分で始めることにしたんですね。

平岡:そう。でも、世の中のアーティストを目指している方は、みんな自分が好きなアーティストがいると思うんですよ。その人の歌を弾き語ってみたくて楽器を始めたり、コードを調べたりしますよね。僕も好きなアーティストさんがいっぱいいて、その人達の楽曲を弾き語りコピーしてみたときに、“こういうコードに対して、こういうメロディーが乗っているんだ”とか、“こういう構成になっているからグッとくるんだ”といったことが少しずつわかっていったんです。

──いよいよシンガーソングライターのスタートラインに立ちましたね。そこからが実際の勝負なわけですが、どんな活動をされていったのでしょう?

平岡:東京に出てきたのが20歳だったと言いましたけど、そこからの2~3年くらいは本当に音楽活動といえるような活動はできていなかったんです。ライブに出て、ファンの人が増えていって…みたいなことができていなくて、ただひたすらボイトレに通って、歌のトレーニングをしたり、ピアノのことを学んだり、音楽理論のことを少し教えてもらったりといったことをしていました。あと、これは“上京者あるある”ですけど、家賃や生活費を稼ぐためにアルバイトをしないといけないというのがあって。当時の僕は板橋区の成増という場所で独り暮らしをしていたので、アルバイトをしないといけなかったんです。だから、最初の2年くらいは音楽家という活動は全然できていなかったですね。でも、曲もできたし、これはアウトプットしていかないといけない、自分だけで満足していてはいけないと思って、配信サイトで生配信を始めたんです。生配信をやっていくごとに応援してくださる方が1人、2人と増えていって、ライブをするということも考えるようになった。そうしたら、Twitterとかで「ライブをやりませんか?」と声をかけるオーガナイザー的な人がいるんですよ。それで声をかけていただいたことがきっかけになって、ライブハウスで歌うということも初めて経験しました。

──おおっ、やりましたね! それに、ストリート・ライブもされていたとお聞きしましたが?

平岡:その後ストリート時代に突入するんです。ネットを使って音楽を発信し始めて、人前で歌うということに慣れていった1~2年があって。ずっと生配信を続けていたけど、それを見にきてくれる人というのは自分のことを好きな人で、言ってみればちょっと甘い意見が多いんですよね。それで、これは1度街角で歌ってみて自分の歌声にどれだけの人が耳を傾けてくれるのか、どれだけの人が足を止めてくれるのかということを試してみたほうがいいなと思うようになったんです。僕は思春期だった頃に19さんが大好きで、彼らはずっとストリート・ライブをしていたということを聞いていて、自分も東京に出たら絶対にやりたいなと思っていたというのもありましたね。それで、初めて新宿の南口で路上ライブをしました。

──新宿デビューですね。初のストリートは、いかがでしたか?

平岡:足を止めてくれる人は、0人でした。そして、同じ警察官に3回怒られるという(笑)。もう、心がボキボキに折れまくりました(笑)。ただ、本当にその日最後に救われたのが、生配信をいつも見てくれている人が仕事終わりに急いできてくれたんです。「すみません。警察に3回止められちゃって、今日はもう終わりなんです」みたいな状況だったけど、ネットを飛び越えてリアルでその人と会えたわけじゃないですか。その感動が今でも忘れられないくらい大きくて、ネットはネットでよさがある時代ではあるけど、自分は街角で歌っても、ライブハウスで歌っても、来てくれている人や聴いてくれている人、1人1人に歌を届けないといけないと思うようになったんです。それに気づかせてくれたという意味で、僕にとっては大きなものが得られた初ストリートになりました。それで、ずっとストリート・ライブもするようになったんです。

──ネットとリアルの両方を活かすことにしたのは、いい選択だったと思います。それに、ネットの生配信やストリートをしたからといって誰もが注目を集められるわけではありませんので、平岡さんが当時から上質な音楽を発信されていたことがわかります。

平岡:そう言っていただけると、自信になります。僕は本当に運がよかったと思うんですよ。今でこそストリートに来てくれる人も多くなりましたけど、最初の頃は本当に少人数だったんです。でも、ストリート・ライブの映像をYouTubeに上げてくれるファンの方がいて、そこでYouTubeの再生回数がすごく上がって、それがきっかけになって僕のことを知ってくれる人が増えたり、いろんなチャンスをいただいたりしたんです。だから、巡り合わせというか。自分がそこにいて、たまたまそこに来てくれた人が、たまたま上げた動画が、たまたま伸びて…という、本当に奇蹟が重なったところがあったと思います。

──奇蹟でしょうか? 平岡さんが作る音楽や歌声、平岡さんの人柄などが魅力的で、それに共鳴した方々が大きな波を生んだのだと思います。それにしても、たとえばバンドであればメンバーという仲間がいますが、平岡さんは1人で動いて、自身で道を切り拓かれたんですね。そこは、本当にリスペクトします。

平岡:いやいや(笑)。ただ、そこは今でも悩みでもあって。悩みというか、シンガーソングライターが背負わないといけないものだと思うけど、1人なんですよね。物事を判断したり、決断したりするときも1人だし、ステージに立つときも1人。だから、すべては自分の責任なわけで、それは常に感じています。ただ、僕は人に恵まれているなと思いますね。東京にきてから自分にとって大事な人との出会いが沢山あったんです。僕がよく言われるのは、お父さん、お母さんの育て方がよかったねということなんですよ。お父さん、お母さんに会わなくても平岡君を見ていると、親御さんのよさがわかると。だから、両親には本当に感謝しています。

──平岡さんと話をしていると真っすぐさや真面目さが伝わってきますし、だからこそいい人達との出会いがあったことは間違いないです。それに、平岡さんの行動はある意味破天荒ともいえますが、多くの若い人に勇気や希望を与えると思います。

平岡:そうだと、いいなと思いますね。僕はなにもわかっていなかったけど、ハングリー精神はあったんですよ。東京の人には負けたくない…みたいな。東京に実家があるに越したことはないと思うけど、腹が減っていないと飯を食うための努力をしないじゃないですか。僕は、ただ暮らしているだけでも家賃が飛んでいくわけですよ。だから、死に物狂いで音楽と向き合わないといけないという気持ちは常にありました。でも、まだまだなので、これからもがんばります。

──やりたいことがある人は思い切って飛び込んで、がむしゃらに努力するということに挑戦してほしいです。では、続いて最新シングル「H」について話しましょう。

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