【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第107回「真壁城(茨城県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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筑波山の麓のなだらかな平地に立てられた真壁城。江戸から見ると筑波山の裏に隠れる城だ。地元の人からすると、いや全然裏じゃねえし、こっち側が表だしという感じらしい。山梨側の富士山を裏富士と言うと、裏じゃねえし、裏は静岡側だし、という山梨県民のプライド的なものか。ひっくるめて「けんかはやめて~」と歌いたい。

真壁城の歴史はかなり古い。城が歴史に登場する時点で1300年代。真壁氏は1100年代から歴史に登場するので一体いつからここに城があったんだろうと興味が湧く。卓偉は一応1999年から裏側の方で頑張っている。徳川幕府の天下統一後、佐竹氏の家臣であった真壁氏は佐竹氏の転封と共に出羽角館へ(山形県と秋田県)その後に浅野氏が入るが浅野氏は1622年に笠間城へ移る。2年空城になったところで1624年に稲葉氏が入城。1628年に稲葉氏もB'zに入るとか入らないとかで転封になり残念ながら廃城となった。真壁氏は土塁の城の名手佐竹氏の家臣ということでなのか、佐竹氏の城に実に良く似ていると私は思う。大好物である。

茨城県は関東平野のスペースが大きいので当時はかなり大きな平城がたくさん立てられていた。真壁城は城の搦手側が筑波山ということもあり、大手よりも搦手側の防御が硬いデザインが施されている。これがとても魅力的だと思う。山側から攻めて来られないようにという工夫である。今でも筑波山の中腹や麓には見張り台的な曲輪が残っているらしい。武田信玄公も山に囲まれた盆地である甲府のありとあらゆる山のピンポイントに支城を建てていた。戦国は陸からよりも山から攻められることを嫌ったのである。


城はとにかく広大。廃城になって以降、少しずつ町の開拓により城は面影を無くしていったが、今残されている部分だけでも相当な大きさを誇る。曲輪、空堀、水堀、土塁、虎口、門跡、櫓台、どれを取っても素晴らしい。復元整備されている部分もあるが石垣の城ではないのでその仕上がりは生々しくとてもCOOLだ。現在は本丸跡に駐車場があり車を停められる。そこから二の丸、中城、外曲輪と足を運ぼう。本丸にある平面図の掲示板を見る限り、相当埋め立てられてしまっていることがわかる。まずその掲示板の後ろの土橋、そしてその後ろの曲輪の土塁、これは後付けらしい。え?いきなりこれが後付け?と思うかもしれないが、その土橋に立って真っ直ぐ山を見ると山の中腹に岩山が見える。桜川市周辺は昔から石の町として栄えた。筑波山で岩を切り、もう今は廃線になってしまった駅までトロッコで石を運んでいたらしく、その線路を繋ぐのに本丸をどうしても横切らなければいけなかった。それで水堀に土橋を通したとのこと。平面図を良く見ると確かにこの場所に橋はない。本丸正面門と本丸搦手門の二ヶ所しか導線はない。当時と現在をちゃんと見抜くことも見学、そしてイマジンのポイントだ。現在も復元整備は続けられていて今後がめちゃくちゃ楽しみだ。

城の外に田中川、山口川がありその水を掘りに引いている。よって当時はしっかりとした水堀の城だったことがわかっている。現在の空堀も水が乾いてしまっただけで当時は大体は水堀だったとのこと。筑波山から流れてくる湧水も取り入れることに成功している。だから若干迫り上がった外曲輪であっても水堀が可能になったのであろう。空堀も今見てもかなりの深さがあるが、発掘調査ではもっと深かったらしく、見学してもらうのに危険と判断し、ある程度埋め立てられて今の深さという。恐ろしいデザイン、素晴らしいではないか。石垣よりも土塁の方が実は登れないのだ。まして空堀に落ちて土塁を這い上がろうとしても絶対に無理なのである。




櫓台、木橋も復元されていて、ところどころ登れるビューポイントと書いた場所もあり、平城とはいえ眺めは素晴らしい。外曲輪の堀と土塁が凄く、現在は鹿島神社が建てられている場所付近の作りは特に凄い。復元するにもこの辺りの保存状態が素晴らしかったのでここを真似て復元していったそうな。外曲輪の門跡の土橋が凄く太く、搦手でこんな大きな間口になるのかと感心していたところ、どうやら平成の発掘調査が入る前までここに住まれていた方がいたらしく、住居の跡ということで土橋が太くなっているらしい。すげえな。両サイドが水堀でその土橋に住むなんて。これまたイマジンが必要な話だが、一度自然に帰った真壁城、復元整備される前は大体が畑と田んぼになっていたそうだ。先ほどもお伝えしたが城のど真ん中に石を運ぶトロッコの線路があったとされる。まるで小さな恋のメロディーではないか!私の大好きな映画である。明治、大正当時の真壁城も見てみたかった気がする。一度自然に帰り、また整備されて復活する城も近年は多い。




大手側よりも搦手川の曲輪を中心に復元されている真壁城だが、本丸にある体育館の裏に行ってみてほしい。見事な土塁が残っていて、その下は普通に民家が立ち並んでいる。一軒家の民家が並んでいる場所が当時は本丸の水堀の跡だ。その土塁の下に民家の倉庫が立ち並んでいるので、小石や土を蹴らないように見学は注意しよう。100人乗っても大丈夫的な倉庫ではあるが注意しよう。本丸正面門跡の土橋は現在も道としてちゃんと残っていて、敵を少なくさせる為に細く仕上げてある。それがそのままひっそりと残っていたりする。今回もtvkのロケで来れたわけだが桜川市教育委員会文化財課の川又さんが事細かに真壁城の歴史を教えてくれた。どんどん進めている復元整備も今後は本丸の搦手口、現在も水堀が残っているが、この場所も今後手を加えたいとのこと。二の丸には大きな茶室や庭が発掘された。現在進行中だ。これだけ大きな平城だ、そういう生活感あふれる部分も当然見つかっていくだろう。大手側は道路になってしまっており、当時の城下町を今から整備するのは困難とのこと。でも今のスペースだけを発掘調査、復元整備していくだけでも相当楽しめること請け合いだ。



真壁城周辺は今も畑と田んぼ。とてものどかな雰囲気だ。農家のお爺さんやお婆さんがトラクターに乗って畑を耕している光景は福岡の田舎出身の私からするととても懐かしく思える。そんな中カメラを回して大声で興奮しながらロケをやっていたので何度か話しかけられた。「ここも水堀だった」とか「そのトロッコを通すことでこの土塁は途中で切られてんだよ」などといろいろ教えてもらえた。どの人もマスクなどしておらず、一応我々は東京在住だし地方の人ほどコロナを気にしてたら嫌だなと思い「マスクせずで大丈夫ですか?」と聞いてみたところ「コロナなんか怖くねえよ、そんな菌より農薬を直接吸い込む方がやべえからさ、撒き散らすときはそりゃマスクするよガハハハハ~~~~~!」と言われていた。

駐車場で話しかけられたおじさんは「茨城県民は納豆をご飯にかけず食うんだよ」と連呼されていた。納豆にご飯の熱を加えると大豆の栄養が半減するそうな。「だいずがだいずだから」を連呼。そりゃ大豆は大豆でしょうよと思ったのも束の間、きっと「大豆が大事だから」と言われていたことを帰りのレンタカーの中で気付いた。

豆腐を一丁、その上にさほど混ぜない納豆を乗せて、タレをかける。場合によってはネギ、場合によってはキムチを乗せるらしい、子供にはチーズを乗せるとも。茨城県民が全員そうしているわけじゃなくても美味そうではないか。良いことを聞いた。「これで風邪ひかねえから、コロナになんて絶対なんねえから」を連呼。最後におじさんは言った「納豆買うなら国産の物にしてよ、外国のもんはさ、なっとーじゃなくてナッターだからさ、とにかく日本のだいずがだいずだから!」と言って笑っていた。あまりにおじさんの方言で訛っていて、なっとーもナッターもどちらもナッツァー⤴にしか聞こえなかった。


あぁ 真壁城 また訪れたい…。

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