【インタビュー】Chicago Poodle、10周年と黎明期を語る_第一章「3人で続けることを受け入れてくれた」

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■以前はピアノよりギター色が
■強い曲もありましたからね

──ちょっと話は戻るかもしれないですが、最初は洋楽ロックのカバーもやっていたわけですよね。カバーと日本語のオリジナル曲の意識の違いがあったんでしょうか?

花沢:ああ、インディーズ初期はオリジナルも英語が多いんですよ。

辻本:サビが全部英語やったりね。

花沢:そう。エアロスミスをやっていたせいか、英語のほうがしゃがれたいい声が出る気がしていたんです。でも、ディレクターやプロデューサーに「日本人に伝えるんだから日本語で」ってアドバイスされて、やっぱり日本語は大事だなと思ったのもあって、どんどん日本語の割合が多くなったんです。

辻本:あと、当初は杉岡くんというギタリストがいたので、いまみたいなアレンジじゃなくギターロック的な曲もあったんですよね。

──ということはChicago Poodleの音楽性がいちばん変化したのはインディーズ時代なんですね。

花沢:そうですね。

山口:2006年に杉岡がバンドを抜けるんです。“3ヶ月連続ライブ”が決まっていた矢先に。

▲辻本健司 (B)

──そ、そうだったんですか?

辻本:しかも「今日やめる」って。

山口:うん。「本日をもちまして私、杉岡はChicago Poodleを卒表したいと思います」って(笑)。

辻本:脱退じゃなかったっけ?

花沢:卒業って言ってましたね(笑)。

──3人にとっては晴天の霹靂?

辻本:いや、やめたいとか、いろいろ悩んでいたのは知っていたんですけど、まさか、そのタイミングで言い出すとは。

山口:彼はバンドと同じぐらい勉強が好きなんですよ。いまは大学で講師やっているんですけど、どっちか諦めなきゃいけないっていうときに勉強のほうを選んだっていう。

辻本:で、「ライブどうするの? 困るわ」って言ったら、「僕の人生の責任、君たちがとってくれるの?」って(笑)。

──ははは。“3ヶ月連続ライブ”を決める前に決断してほしかったですよね。

花沢:しかも、そのライブは杉岡がお金に困っていたから開催を決めたんですよ。でも、やめるって言い出したのが“3ヶ月連続ライブ”初回の10日ぐらい前で。

辻本:1回目だけ出たんだっけ?

山口:2回目も出たよ。「出てくれ」って言って。

花沢:3回目のライブが3人だけ。かなりドキドキしましたね。

──当時、新たなギタリストを迎えるっていう選択肢は?

山口:なかったです。とりあえずサポートギターを入れてっていう考えでした。

辻本:ライブをするにはギタリストが必要やなっていう話にはなったんですけど、それが新しいメンバーという方向ではなかった。

花沢:人間関係を作るのがたいへんやなと思ったので。ライブが決まっていたから、3人でやらざるを得ない状況だったのが逆に良かったのかもしれない。いま振り返るとそこで立ち止まっていたら、いろいろ考えて一歩踏み出せなかったかもしれないですね。

──ギターロック的な曲もあったということですけど、サウンドやアレンジ的な変化も?

花沢:その前はピアノよりギター色が強い曲もありましたからね。ただ、ウワモノ楽器としてピアノとギターがあるんですけど、基本的に楽曲はずっとコードで作っていたので、いわゆるギターリフで押していくような曲がなかったことも大きいかもしれない。だから、ギターがなくても成立するなって思えたし、まあ、お客さんの後押しが一番でしたけどね。3回目のライブのときのお客さんの反応からも「杉岡さんが抜けても、私たちが3人を応援するで」っていう想いが感じられたので。この状態でいけるんやったら、毎回サポートギタリストに入ってもらったらええんちゃう?ってなったんですよ。

──新しい人がメンバーとして入ってくる違和感を、お客さんとしても望まなかったのかもしれないし。

花沢:そうかもしれないですね。この3人のことを一番わかっているお客さんが、3人で続けることを受け入れてくれたという。

辻本:それがコンセプトマキシシングル「Songs 4 one day EP」(2006年発表)をリリースする前ですね。

花沢:なので、そこに収録されている「Hello」という曲は杉岡がChicago Poodleに残していった置き手紙みたいなものです。

山口:で、Chicago Poodleは杉岡が抜けたときからピアノ色が強い曲になっていくんです。もちろんレコーディングではギターも入れているんですけど、メンバーは3人なので。

辻本:あと当時は杉岡くんがメインで歌詞を書いていたので、抜けるタイミングで山口と「これからは2人で歌詞を書かなあかんな」って。

▲2ndシングル「Songs 4 one day EP」(2006年)

──2006年ぐらいからいまのChicago Poodleの“ピアノ名曲工房”的な在り方になっていくわけですね。さっきお金がないっていう話が出ましたが、3人のインディーズライフはどういう感じだったんでしょう?

花沢:お金はなかったですね。

山口:地方キャンペーンとか行ったら、ご飯はだいたいマクドナルド。

辻本:100円マックですね。

花沢:それこそ全国にプロモーションで廻っているとき、すごく疲れたことがあって。寝れなかったんですよ。

山口:宿泊先がスーパー銭湯のざこ寝仮眠室みたいなところだったからな。

花沢:次の日も移動して宿泊だったので、プロデューサーに「ホテルで寝かせてください」ってお願いしたこともありました。

山口:そこで経験させてもらって、培ったことも多かったし、体力もつきましたね。

──2007年にはミニアルバム『風街序曲』をリリースして全国18本のツアーを廻っていますが、“こういう人たちにも曲が届いているんだ”とか、ツアーって発見も多いと思うんですが?

山口:僕らのお客さんって夫婦でいらしてくれたり、親子だったり。

花沢:当時からそうでしたね。男の人もけっこう見に来てくれて、洋楽が好きなお父さん世代がポツンと見にきてくれたり。そういう発見は嬉しかったですね。

──最初から、そういう普遍的な魅力のある曲を作ろうと思っていたんですか?

花沢:個人的には1980年代の音楽が好きなんですよ。楽曲がいちばん良かった時代だと思っていて、そういう音楽に近づきたいって曲を作っていたというのもあると思うんですよね。両親が音楽好きっていう影響もあるし。

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