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20世紀後半に現れたジャズミュージシャンの中で,アルトサックス奏者Charlie "Bird" Parkerほど後々に影響を及ぼしたミュージシャンはいない。モーツァルトやベートーベン、Ornette Colemanといった音楽家たちのように、Parkerもまた、人の可能性に対する認識を永久に覆してしまった。それも、計算された革新性によってではなく、彼独自の音楽という言葉で、この世界に欠けていたものを取り憑かれたように表現したのだ。こうした人々こそ“天才”と呼ばれるにふさわしい。なぜなら天才は、概念的な跳躍をとげることで自らの表現への欲求を満たすだけでなく、新たな概念を論理的に発展させ,そしてついには共通言語にしてしまう。Charlie Parkerは、音楽界でも比類ない才能を持った、真の意味でアヴァンギャルドの教祖なのである。

'20年生まれのCharlie Parkerが育った'30年代のカンザスシティは、活気溢れるジャズシーンの息づく町だった。Parkerは、10代にしてそのジャズシーンに打って出るが、結果は惨憺たるものだったという。当時のつたない技術では、すでに彼の頭の中で忙しく生まれていた高度なアイデアを、十分に表現するまでには至らなかったのだろう。その後、決意も新たに練習に励み、腕を磨いた彼は、'40年、Jay McShannと活動を共にする。このときすでにParkerは、ソロのサックス奏者として光る存在ではあったが、まだ“独自のコンテキスト”は見い出だせないでいた。

しかしそれは、彼と同じハートを持ったトランペッター、Dizzy Gillespieとの出会いによってもたらされることとなる。Gillespieは、後にビーバップと呼ばれる音楽に向かって、独自のスタイルを確立しようとしていた。Parkerがニューヨークに着いてまもなく、彼自身を理解するプレーヤーに出会うことができたという事実には、ビーバップ革命を推し進めようという歴史的な必然を感じないわけにはいかない。Birdと呼ばれたParkerの前にも、すばらしい即興の演奏家はもちろん数多くいた。しかし、古いやり方は少々かび臭くなり始めていた。時代が渇望し、Parkerが完成の域にまで高めたものは、言語の領域を拡大することであった。メロディには頼らず、新しい展望を開き、即興演奏家たちに新たな要求を課したのだ。また、それと同じくらい重要な要素は、彼が音楽にもたらしたリズムの複雑さであった。ビーバップは(少なくとも最初は)ダンスのための音楽ではなかった。しかし、こうした形式ばった革新的な動きとは別に、彼の演奏の並外れた流動性や、その難解な音楽的思考をいかにも自然に表現するやり方、そしてすべての人の感情に訴える比類なき名人芸のなかに、私たちは、Parkerが天才と呼ばれる所以を目のあたりにするのである。

バップミュージックの歴史の中でも重大な2年間であった'43年から'44年は、レコーディングのストライキが起きていた。そのせいでParkerとDizzyの1stアルバムは、発売された当初('45年)、より一層ラディカルなものとして受けとめられた。この時点で2人の勢いはとどまることを知らず、'40年代後半から'50年代初期にかけて、Parkerは次から次へと傑作をレコーディングしていった。しかし、彼の並外れた才能が、肉体的刺激を求める彼自身の並外れた欲求にぴったりと符合してしまったのは、不幸だったといえるだろう。食事やセックスに対するParkerの飽くなき情熱と探求心は、ジャズ通たちの間では有名な事実である。彼の刺激を求める欲求は、はじめはヘロイン中毒という形で現れた。Parkerがしばしば、ヘロインによって恍惚状態になっているときに、すばらしい演奏を聞かせたという事実が、ジャズミュージシャンの間で、ヘロインが救世主となり得るという圧倒的な神話を生み出してしまったのである。'50年代になると、ドラッグによって自らの約束されたキャリアを台無しにしてしまうジャズミュージシャンは、珍しくも何ともなくなってしまった。

実際、ドラッグ中毒にもかかわらず、Parkerの演奏はすばらしいものであった。また、記録された多くの証拠が示すように、彼の頑固なほど内省的な性格を、ドラッグが緩和したのも本当だ。'55年3月12日、彼は34歳で亡くなるが、彼の肉体は検視官が64歳のものと診断するほど荒廃していた。しかし、こうしたことは、音楽界に革命を巻き起こした彼の輝かしい業績を何ら損なうものではない。Parkerは音楽に革命をもたらした創始者の1人――もっと正確に言えば、彼こそが創始者だといってもいいのだから。