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82年の終わり、人気の絶頂にあったJamを大胆にも解散した24歳のPaul Wellerは、すぐにニューバンドStyle Councilを結成し、'83年の初めには活動を再開した。Wellerの新たな音楽的興味は、Jamの末期にはすでに見え隠れしていた──Curtis Mayfieldの“Move On Up”やChi-Litesの“Stoned Out Of My Mind”をカヴァーし、シングルのB面に“Shopping”のようなソウルっぽい曲を入れ、Jamの最後のツアーにはホーンセクションを同行させた──が、彼の次の動きを予測しえた者はほとんどいなかった。ユーロポップやジャズ、Motown/Staxのアメリカンソウルを自然に組み合わせたStyle Council(TSC)のスタイルは、パンクとモッズをルーツに持つJamとはあまりにかけ離れたものだったからだ。伝記作家のPaolo Hewitt(“Cappuccino Kid”の変名を使い、Wellerと共にTSCのライナーノーツをたびたび書いた)は、「(Wellerの)世界観は白黒から色つきに変わり、音楽もそれにつれて変わってきた」と記している。ただ、歌詞で社会や政治を批判するWellerの姿勢には変化がなかった。

Wellerとキーボード奏者Mick Talbotの2人でスタートしたTSCは、'83年に“Speak Like A Child”“Long Hot Summer”といったシングルを発表。これらはデビューEP『Introducing The Style Council』に収められた。

'84年には18歳の早熟なドラマーSteve White(現在までWellerと活動を共にしている)を加え、正規のデビューアルバム『Cafe Bleu』(アメリカ盤のタイトルは『My Ever Changing Mood』)を録音。唯一の全米ヒット“My Ever Changing Mood”が収録されているほか、Everything But The GirlのTracey Thornがヴォーカルで参加した(皮肉にもWellerは、このバンドのジャジーなアレンジをパクったと非難された)。

'85年の2ndアルバム『Our Favourite Shop』(アメリカ盤は『Internationalists』)では、ヴォーカルのDee C. Lee(Wellerの未来の妻)が新加入。Wellerが歌詞で反サッチャーを唱え、ソングライティングの充実ぶりを見せた、自信にあふれる作品だった。TSCは、総選挙の年に英労働党を支援する目的で行われたRed Wedgeツアーに、Billy BraggやCommunardsと共に参加、政治とのかかわりはここにおいてピークに達する。

しかし音楽と選挙運動の連携は長くは続かず、幻滅したWellerはスランプに陥る。'87年の『The Cost Of Loving』は、批評家にも音楽ファンにもそっぽを向かれた。最後のアルバムになった'88年の『Confessions Of A Pop Group』は、半分がロック/ポップソング、あとの半分は大がかりなオーケストレーションを施した曲やピアノバラードという内容で、イギリスを席巻していたノイズ系のバンドや、ファンキーな“マンチェスター・ムーヴメント”の対極にあり、これも不評だった。その後、Wellerはダンスミュージックに接近するが、シカゴのハウスチューンを集めて録音したアルバムを、所属レーベルのPolydorに却下されたことが、Style Councilの終焉を早めた(このとき録音した曲でリリースされたのは“Can You Still Love Me”とJoe Smithのカヴァー“Promised Land”のみ)。

最後までJamの影につきまとわれたStyle Councilは、結果としてあまり芳しい評価を得ていない(Weller本人でさえ、批判的に振り返っている)。イメージを大切にしたこのバンドは、アルバムのアートワークからシングルのB面曲まで、すべてに細心の注意を払った。実際Wellerによるベストソングの一部(“Spin Drifting”“The Picadilly Trail”)は、シングルのB面に隠れていた(B面曲とアウトテイクのコレクション『Here's Some That Got Away』もあり)。