ニュース・最新情報
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ロイ・オービソン&バディ・ホリーのホログラム・ツアー開催
昨年開かれたロイ・オービソンのホログラム・ツアーが好評だったのを受け、ロイ・オービソンの遺産管理団体とホログラム制作会社BASE Hologramは、今度は、オービソンと彼の友人だったバディ・ホリーのジョイント・ホログラム・ツアー<Roy Orbison & Buddy Holly: The Rock ’N’ Roll Dream Tour>の開催を発表した。
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ロイ・オービソン、ホログラム・パフォーマンス映像公開
この春開催されるUKツアーを前に、故ロイ・オービソンのホログラムがオーケストラとパフォーマンスする映像が公開された。
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ロイ・オービソン、ホログラムがUKツアー開催
1988年に亡くなったロイ・オービソンが、ホログラムとなり、2018年春UKでロイヤル・フィルハーモニック・コンサート・オーケストラとツアーを行なうことが明らかになった。
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ロイ・オービソン、家族公認のバイオグラフィ映画制作
ロイ・オービソンの家族が、彼のバイオグラフィ映画『The Big O: Roy Orbison』の制作を承諾、プロデュースもすることが決まった。
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エピフォンからロイ・オービソン「Oh, Pretty Woman」限定発売
エピフォンからロイ・オービソンの新作シグネチャー・モデルが限定発売となる。
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ニール・ヤング、新種蜘蛛の名に
あらたに発見された新種の蜘蛛に、ニール・ヤングの名がつけられることになった。
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英アルバム・チャート、あのスーパー・グループが1位に
今週の英シングル・チャートは、先週に続き5週連続でリアーナの「Umbrella」をトップをキープした。
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QOTSAのジョシュア、Wストライプスとカラオケを楽しむ
クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのフロントマン、ジョスア・オムは、ホワイト・ストライプスのメグ・ホワイトとカラオケ友達だという。
プロフィール・バイオグラフィ・リンク
生まれは1936年4月23日、テキサス州のヴァーノン。父親の手ほどきで6歳でギター、そしてハーモニカをマスターし、子供時代から地元のラジオ、テレビに出演し、ハイ・スクールではバンドを結成。
大学時代に組んだティーン・キングスがバディ・ホリーを手掛けて知られるノーマン・ペティに認められ、1956年にジュエル・レコードから「Ooby Dooby」でデビュー(ティーン・キングス名義)を飾った。この曲がプレスリーを世に送り込んだばかりのサン・レコード社長サム・フィリップスの耳にとまり、同社から再録音で新たにリリースされ(ロイ・オービソン&ザ・ティーン・キングス名義)、全米NO.59をマーク。プレスリーが大手RCAにスカウトされてしまったこともあり、サン・レコードはロイを"ポスト・プレスリー"として売り出すもヒットは続かず。ロイはプレスリーの後を追って?RCAに移籍するも失敗。が、モニュメント・レコードへ入社後の第3弾「オンリー・ザ・ロンリー」が全米大ヒットを記録、一気にスターダムへとノシ上がった。
しかし、ビートルズ旋風を軸とする新しい時代の波には逆らえず、1965年のMGM移籍後は急速にパワー・ダウン1967年を最後に長らくヒット・チャートからは姿を消してしまう。さらに、1966年に妻クローデッドがバイク事故で死亡、また1968年には自宅の火事で息子二人を亡くすなど私生活での不幸も重なり公私共に落ち込んだ。
1970年代に入り、マーキュリー(74年~75年)ではダメだったが、アサイラム(1979年)を経て、自らも出演した映画「ローディ」(ミート・ローフ主演)のサントラでエミルー・ハリスとデュエットした楽曲「胸ときめいて~That Lovin' You Feeling Again」(ワーナー)が13年ぶりに全米チャートに登場(NO.55:カントリー・チャートではNO.6)、グラミー賞の最優秀カントリー・グループを獲得するなど復活のきざしが見え始めた。
ロイのヒット作がリンダ・ロンシュタットやドン・マクリーン、ヴァン・ヘイレンらによって取り上げられたことも下地になったといえるだろう。
ヴァージン社との契約が成立し、往年の名曲の新録音盤「イン・ドリームズ~ザ・グレイテスト・ヒッツ」(1987年)を発表。同年9月には、ロイ・オービソン&フレンズ名義でのココナッツ・グルーヴ・セッション(死後1989年に「ア・ブラック・アンド・ホワイト・ナイト・ライヴ」としてリリース。スプリングスティーンやコステロ、J.D.サウザー、ジャクソン・ブラウンにk.d.ラング、ボニー・レイットらが参加)が挙行され「ロックン・ロールの殿堂」入り。そしてあのトラヴェリング・ウィルベリーズ。ELOのジェフ・リンを核にトム・ペティ、ボブ・ディランにジョージ・ハリスンという超スーパーな顔ぶれが偽名で組んだバンドの一員として大ベスト・セラー・アルバム(1988年)を出した直後にロイは倒れた。ヴァージンから出されたファン待望のオリジナル新作集「ミステリー・ガール」(ハリスン、ペティ、リン、ボノ、コステロらが参加)が長年のキャリアにおける最大のヒット(NO.5)&初のプラティナ・アルバムになるのを見届けることもなく、彼は逝ってしまった。
その名前から"BIG O"と呼ばれ、多くのファンやミュージシャンたちからも敬愛されていたロイ・オービソン。後年の多忙さが寿命を縮めたのかも知れないが、多くのスターが過去の遺産だけで晩年を過ごしていることを考えれば、幸せな人生だったといえるだろう。
大学時代に組んだティーン・キングスがバディ・ホリーを手掛けて知られるノーマン・ペティに認められ、1956年にジュエル・レコードから「Ooby Dooby」でデビュー(ティーン・キングス名義)を飾った。この曲がプレスリーを世に送り込んだばかりのサン・レコード社長サム・フィリップスの耳にとまり、同社から再録音で新たにリリースされ(ロイ・オービソン&ザ・ティーン・キングス名義)、全米NO.59をマーク。プレスリーが大手RCAにスカウトされてしまったこともあり、サン・レコードはロイを"ポスト・プレスリー"として売り出すもヒットは続かず。ロイはプレスリーの後を追って?RCAに移籍するも失敗。が、モニュメント・レコードへ入社後の第3弾「オンリー・ザ・ロンリー」が全米大ヒットを記録、一気にスターダムへとノシ上がった。
しかし、ビートルズ旋風を軸とする新しい時代の波には逆らえず、1965年のMGM移籍後は急速にパワー・ダウン1967年を最後に長らくヒット・チャートからは姿を消してしまう。さらに、1966年に妻クローデッドがバイク事故で死亡、また1968年には自宅の火事で息子二人を亡くすなど私生活での不幸も重なり公私共に落ち込んだ。
1970年代に入り、マーキュリー(74年~75年)ではダメだったが、アサイラム(1979年)を経て、自らも出演した映画「ローディ」(ミート・ローフ主演)のサントラでエミルー・ハリスとデュエットした楽曲「胸ときめいて~That Lovin' You Feeling Again」(ワーナー)が13年ぶりに全米チャートに登場(NO.55:カントリー・チャートではNO.6)、グラミー賞の最優秀カントリー・グループを獲得するなど復活のきざしが見え始めた。
ロイのヒット作がリンダ・ロンシュタットやドン・マクリーン、ヴァン・ヘイレンらによって取り上げられたことも下地になったといえるだろう。
ヴァージン社との契約が成立し、往年の名曲の新録音盤「イン・ドリームズ~ザ・グレイテスト・ヒッツ」(1987年)を発表。同年9月には、ロイ・オービソン&フレンズ名義でのココナッツ・グルーヴ・セッション(死後1989年に「ア・ブラック・アンド・ホワイト・ナイト・ライヴ」としてリリース。スプリングスティーンやコステロ、J.D.サウザー、ジャクソン・ブラウンにk.d.ラング、ボニー・レイットらが参加)が挙行され「ロックン・ロールの殿堂」入り。そしてあのトラヴェリング・ウィルベリーズ。ELOのジェフ・リンを核にトム・ペティ、ボブ・ディランにジョージ・ハリスンという超スーパーな顔ぶれが偽名で組んだバンドの一員として大ベスト・セラー・アルバム(1988年)を出した直後にロイは倒れた。ヴァージンから出されたファン待望のオリジナル新作集「ミステリー・ガール」(ハリスン、ペティ、リン、ボノ、コステロらが参加)が長年のキャリアにおける最大のヒット(NO.5)&初のプラティナ・アルバムになるのを見届けることもなく、彼は逝ってしまった。
その名前から"BIG O"と呼ばれ、多くのファンやミュージシャンたちからも敬愛されていたロイ・オービソン。後年の多忙さが寿命を縮めたのかも知れないが、多くのスターが過去の遺産だけで晩年を過ごしていることを考えれば、幸せな人生だったといえるだろう。
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