亡きアダム・ヤウクへ捧ぐ


初期のビースティー・ボーイズは常に話題をよぶ活動を行い、1985年に自分達とは全く異色のバンドであるパブリック・イメージ・リミテッド、マドンナ、ランDMCらのオープニングを務めた。後年には、パブリック・エナミーが彼らのオープニングを務めている。
パーティー好きでコミカルなイメージが定着していったビースティーだったが、その一方でヤウクを中心としたメンバーらはシリアスな一面も培っていった。チベットに興味を持ち始めたヤウクは、中国から不当に抑圧されていたチベットを支援するために、1996年からチャリティー・コンサート<チベット・フリーダム>開催を始めた。仏教徒に改宗したヤウクは、1998年にアメリカ生まれでチベット人の両親を持つデチェン・ウェングドゥと結婚。2人の出会いは、ハーバード大学でのダライ・ラマの講演だった。チベット式の伝統的な結婚式ではランシッドが披露宴でパフォーマンスを行なった。

高い評価を得たビースティー・ボーイズのPVの多数を自ら手がけたヤウクは、映画製作/配給会社Oscilloscopeを創設。同社は、バスケットボール・ドキュメンタリー映画『ガンニン・フォー・ザット・#1・スポット』や、LCDサウンドシステムのラストライブを追ったドキュメンタリー映画『シャット・アップ・アンド・プレイ・ザ・ヒッツ』などを製作した。
ラッパーとしてのイメージが強いヤウクだったが、実は洗練されたベーシストでもあった。ラップ・アーティストがロックの殿堂入りを果たすのは、ラン・DMCとグランドマスター・フラッシュに続いてビースティー・ボーイズが歴代3組目となる。アメリカでは4枚のアルバムが1位を獲得し、全世界で4000万枚以上の売上げを記録した。
日本とも長年に渡って縁のあることで知られるビースティー・ボーイズは、日本のテレビ番組でかなり泥酔して下品ともよべる「ファイト・フォー・ユア・ライト」のパフォーマンスを行い、1998年には渋谷駅と新宿駅周辺で「インターギャラクティック」のPVを撮影した。また、1999年と2001年には東京で<フリー・チベット~チベタン・フリーダム・コンサート>を開催。2004年にはサマソニ、2007年にはフジロックに出演している。アーティストを超越した活動家で高潔の士だったアダム・ヤウクの冥福を心から祈りたい。
キース・カフーン(Hotwire)
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