9月30日、サッズ岡山公演の真意と永久不変の真実~今もそこにいる“同志”への想い~
永久不変の真実たち。そんな意味合いに解釈すればいいのだろうか。9月30日、岡山・CRAZY MAMA KINGDOMで行なわれたサッズのライヴには『EVERLASTING TRUTHS』という意味深長なタイトルが冠せられていた。この11月から12月にかけてはニュー・シングル「DISCO」(11月10日発売)を携えながらの<ANDROGYNY INSANITY TOUR>と銘打たれた全国ツアーも控えている彼らだが、この岡山での公演はそうした文脈からはむしろ逸脱したものである。とはいえ清春には、どうしてもこの日にこの場所でライヴを行なうべき理由があった。しかも他の名義や形態ではなく、あくまでサッズとして。
◆サッズ画像@CRAZY MAMA KINGDOM
ちょうど1年前にあたる2009年9月28日、東條雅人さんが急病のため逝去された。42歳の若さだった。2000年から2006年にかけて『FOOL'S MATE』誌の編集長を務め、2009年当時は同誌に編集顧問として関わっておられた東條さんの名前は多くの音楽ファンの間で認識されているはずだし、さまざまなアーティストたちと厚い信頼関係にあったことをご存知の読者も少なくないだろう。そして彼こそがまさに、清春の歴史をずっと間近で見守り続けてきた生き証人のひとりだったということも。
清春にとって東條さんは、単なる取材担当者ではなく、友人であり、同志であり、戦友ともいえる存在だった。そして当然ながらその関係は、ずっと続いていくはずのものだった。いや、すでに東條さんが故人となってしまった現在でも、実は清春と彼との関係はそのまま持続しているのだろう。彼の他界から1年を経て実現することになった今回のライヴがこんなふうに銘打たれることになった理由も、そこにあるに違いない。蛇足を承知で補足させていただけば、公演地の岡山は東條さんが生まれ育った郷里である。
すでに『FOOL'S MATE』誌9月号で僕が担当させていただいた記事や、『ROCK AND READ 032』の巻末特集に掲載された吉田幸司さんによるロング・インタビューのなかでも清春自身の口から語られていることだが、彼がサッズの新たな始動に踏み切った理由も、実は、東條さんが天に召されたことにある。とはいえ、いわゆる“追悼”を動機としているわけではない。当事者以外には理解しがたい感覚かもしれないし、詳しくは前述の各誌のバックナンバーなどをご参照いただきたいところだが、彼を突き動かしたのは、盟友に対する「今も一緒に生きている」という気持ちだったのだという。それが清春を去る1月の武道館公演へと導き、『THE 7 DEADLY SINS』というきわめて画期的な作品の誕生へと繋がった。そしてサッズは現在、清春自身の当初の想定を遥かに超越した、きわめて刺激的で有機的な生命体として機能している。その“今”を、どうしても届けたいし、分かちあいたい。そうした強い思いが、この日、一夜限りの特別なライヴとして結実することになったわけである。
前置きばかりが長くなってしまい申し訳ないのだが、こうした経緯を踏まえずしてこの夜のライヴについて述べるわけにはいかないことをご理解いただきたい。そして同時に、当日の演奏内容などについて、この場で詳しく具体的なご報告をするつもりも僕にはない。ただ、ステージ自体が素晴らしいものだったことは言うまでもないし、こうして数日間を経て改めて客観的に考えてみても、現在のサッズとしてベストの部類に入るライヴ・パフォーマンスだったことは間違いない。東條さんのフェイヴァリット・バンドの曲ばかりが並べられた開演前のBGMには舞台監督の愛情を感じずにいられなかったし、同様にしてMEGADETHやMETALLICAなどのフレーズが即興的に盛り込まれたK-A-Zのギター・ソロの際には、実際に東條さんがフロアで感嘆の声をあげている図が目に浮かんだ。そして終演後の楽屋でも、「清春さん、最高です!」という彼の興奮気味の声が聴こえてくるように思えた。
挑発的で扇動的な轟音と、ロック然とした官能、邪悪なメロイック・サインに塗りつぶされたそのライヴは、ありがちな追悼公演のような湿っぽい空気とは、一切無縁のものだった。その場で思い出話が披露されるわけでもなければ、儀式めいた何かがあったわけでもない。涙を浮かべるような瞬間も訪れはしなかった。その代わり、ステージの上と下を問わず、同じ場所にいた誰もがたくさんの汗をかき、満ち足りた笑顔で会場をあとにすることになった。
演奏中、関係者席の中央には東條さんの写真が飾られ、ずっとまっすぐにステージを見守り続けていた。が、実際、写真だけじゃなく本当に彼自身がその場にいたのだと僕は思う。そしておそらく、サッズの現在を体感し、より刺激に満ちたこのバンドの未来を確信しながら微笑んでいたに違いない。そして清春は、またこの場所に帰ってくることを約束して、ステージから去った。サッズが「どうしても通過しなければならない場所」を経ながら次なる道程への第1歩を踏み出した瞬間が、そこにあった。
私事で恐縮だが、僕自身は1年前、東條さんの葬儀にすら駆けつけることができなかった。その当日、彼がとても楽しみにしていたというDEAD ENDのインタビュー(それが彼にとって同バンドとの初取材の機会となるはずだった)を僕が代わりに担当しなければならなくなったからだった。それからの1年、何本の原稿を書き上げても、かつてのように彼から「増田さん、最高です!」というメールが届くことはなかった。もちろんそれは、これからも同じことだ。が、きっとすべて目を通してくれているに違いないし、この原稿も彼の目に届いているのだと信じたい。
最後に改めて、お礼を言いたい。口約束することは簡単でもなかなか実現することは難しい特別なライヴを躊躇なく実現してくれた清春と、サッズのメンバー、スタッフたちに。そしてあの夜、あの場所を埋め尽くしていたオーディエンスや、わざわざ東京から駆けつけた何人かの関係者たちに。本当にありがとう。僕自身のなかでも、なんだかあの一夜を経たことで、明日に向かっていく決心がついた。そしてこの気持ちこそ、永久不変であるべきなのだと思う。
文/撮影●増田勇一
◆サッズ画像@CRAZY MAMA KINGDOM
ちょうど1年前にあたる2009年9月28日、東條雅人さんが急病のため逝去された。42歳の若さだった。2000年から2006年にかけて『FOOL'S MATE』誌の編集長を務め、2009年当時は同誌に編集顧問として関わっておられた東條さんの名前は多くの音楽ファンの間で認識されているはずだし、さまざまなアーティストたちと厚い信頼関係にあったことをご存知の読者も少なくないだろう。そして彼こそがまさに、清春の歴史をずっと間近で見守り続けてきた生き証人のひとりだったということも。
清春にとって東條さんは、単なる取材担当者ではなく、友人であり、同志であり、戦友ともいえる存在だった。そして当然ながらその関係は、ずっと続いていくはずのものだった。いや、すでに東條さんが故人となってしまった現在でも、実は清春と彼との関係はそのまま持続しているのだろう。彼の他界から1年を経て実現することになった今回のライヴがこんなふうに銘打たれることになった理由も、そこにあるに違いない。蛇足を承知で補足させていただけば、公演地の岡山は東條さんが生まれ育った郷里である。
すでに『FOOL'S MATE』誌9月号で僕が担当させていただいた記事や、『ROCK AND READ 032』の巻末特集に掲載された吉田幸司さんによるロング・インタビューのなかでも清春自身の口から語られていることだが、彼がサッズの新たな始動に踏み切った理由も、実は、東條さんが天に召されたことにある。とはいえ、いわゆる“追悼”を動機としているわけではない。当事者以外には理解しがたい感覚かもしれないし、詳しくは前述の各誌のバックナンバーなどをご参照いただきたいところだが、彼を突き動かしたのは、盟友に対する「今も一緒に生きている」という気持ちだったのだという。それが清春を去る1月の武道館公演へと導き、『THE 7 DEADLY SINS』というきわめて画期的な作品の誕生へと繋がった。そしてサッズは現在、清春自身の当初の想定を遥かに超越した、きわめて刺激的で有機的な生命体として機能している。その“今”を、どうしても届けたいし、分かちあいたい。そうした強い思いが、この日、一夜限りの特別なライヴとして結実することになったわけである。
前置きばかりが長くなってしまい申し訳ないのだが、こうした経緯を踏まえずしてこの夜のライヴについて述べるわけにはいかないことをご理解いただきたい。そして同時に、当日の演奏内容などについて、この場で詳しく具体的なご報告をするつもりも僕にはない。ただ、ステージ自体が素晴らしいものだったことは言うまでもないし、こうして数日間を経て改めて客観的に考えてみても、現在のサッズとしてベストの部類に入るライヴ・パフォーマンスだったことは間違いない。東條さんのフェイヴァリット・バンドの曲ばかりが並べられた開演前のBGMには舞台監督の愛情を感じずにいられなかったし、同様にしてMEGADETHやMETALLICAなどのフレーズが即興的に盛り込まれたK-A-Zのギター・ソロの際には、実際に東條さんがフロアで感嘆の声をあげている図が目に浮かんだ。そして終演後の楽屋でも、「清春さん、最高です!」という彼の興奮気味の声が聴こえてくるように思えた。
挑発的で扇動的な轟音と、ロック然とした官能、邪悪なメロイック・サインに塗りつぶされたそのライヴは、ありがちな追悼公演のような湿っぽい空気とは、一切無縁のものだった。その場で思い出話が披露されるわけでもなければ、儀式めいた何かがあったわけでもない。涙を浮かべるような瞬間も訪れはしなかった。その代わり、ステージの上と下を問わず、同じ場所にいた誰もがたくさんの汗をかき、満ち足りた笑顔で会場をあとにすることになった。
演奏中、関係者席の中央には東條さんの写真が飾られ、ずっとまっすぐにステージを見守り続けていた。が、実際、写真だけじゃなく本当に彼自身がその場にいたのだと僕は思う。そしておそらく、サッズの現在を体感し、より刺激に満ちたこのバンドの未来を確信しながら微笑んでいたに違いない。そして清春は、またこの場所に帰ってくることを約束して、ステージから去った。サッズが「どうしても通過しなければならない場所」を経ながら次なる道程への第1歩を踏み出した瞬間が、そこにあった。
私事で恐縮だが、僕自身は1年前、東條さんの葬儀にすら駆けつけることができなかった。その当日、彼がとても楽しみにしていたというDEAD ENDのインタビュー(それが彼にとって同バンドとの初取材の機会となるはずだった)を僕が代わりに担当しなければならなくなったからだった。それからの1年、何本の原稿を書き上げても、かつてのように彼から「増田さん、最高です!」というメールが届くことはなかった。もちろんそれは、これからも同じことだ。が、きっとすべて目を通してくれているに違いないし、この原稿も彼の目に届いているのだと信じたい。
最後に改めて、お礼を言いたい。口約束することは簡単でもなかなか実現することは難しい特別なライヴを躊躇なく実現してくれた清春と、サッズのメンバー、スタッフたちに。そしてあの夜、あの場所を埋め尽くしていたオーディエンスや、わざわざ東京から駆けつけた何人かの関係者たちに。本当にありがとう。僕自身のなかでも、なんだかあの一夜を経たことで、明日に向かっていく決心がついた。そしてこの気持ちこそ、永久不変であるべきなのだと思う。
文/撮影●増田勇一
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