短期集中連載:増田勇一のDEAD END回想録(3)『SHAMBARA』

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▲アルバム『SHAMBARA』
▲LPの歌詞カードに使用されていた四者四様の写真。MINATOは当初、ピアノを弾いている写真が用いられることになっていた。
▲いわゆるプレス・キット。プロモーション用に作られたシングル盤とともに各所に配布された。
1987年9月に発売されたメジャー・デビュー作、『GHOST OF ROMANCE』はオリコンのアルバム・チャート初登場で14位を記録。同年10月28日に芝郵便貯金ホール(現メルパルクホール)で行なわれた東京公演を皮切りに展開された各都市でのライヴも大盛況のうちに終了し、なかでも大阪厚生年金会館での公演チケットは発売から2時間で完売に至っている。そして現在の常識からすれば、その先には全国津々浦々をまわる長期ツアーが待ち受けていて当然のところだが、実際には同年12月の時点で、すでにDEAD ENDは次なるアルバムの制作に着手している。『SHAMBARA』と銘打たれたこの作品は、1988年3月には完成に至り、同年5月21日にリリースされている。

当時の日本では、いわゆるロック・バンドでも1年間にアルバムを2枚リリースすることが少しもめずらしくなかったし、むしろそれがメジャー・フィールドでバンドを円滑に転がしていくための必要条件でもあった。そのため、すぐに楽曲のストックが底をつき、音楽的に行き詰まってしまうバンドも少なくなかったことは否めない。が、少なくともDEAD ENDの場合、バンド名自体が意味するような袋小路に迷い込むことはなかった。それは作品ごとにバンド内のメカニズムが確実に変化を重ねていたからでもあるに違いない。

前回の原稿でも記したように、『DEAD LINE』において作曲面でのイニシアチヴを握っていたのは間違いなく初代ギタリストのTAKAHIRO。続く『GHOST OF ROMANCE』での彼らは、YOUをメイン・ソングライターとする体制へと移行する途中段階にあった。そして“作詞:MORRIE/作曲:YOU”を基本フォーマットとする構図がようやく完成に至ったのが、この『SHAMBARA』ということになる。全10曲の収録曲のうち「Night Song」のみCOOL JOEの作曲によるものだが、それ以外のすべてはこの体制により作られている。また、アナログ盤には「Serpent Silver」と「Luna Madness」が収録されておらず、全8曲となっている事実も付け加えておきたい。

そしてもうひとつ、制作体制の部分での差異として大きいのは、この作品で初めて、岡野ハジメ氏とのコラボレイトが実現していることだろう。超絶ファンク集団として知られるPINKのべーシストだった岡野氏の名前は、現在ではまず何よりもプロデューサーとして認知されているはずだ。が、のちに数多くのバンドから氏へのオファーが殺到することになった遠因が、実はこの作品にあると言っても過言ではないだろう。敢えて具体的な個人名は明かさずにおくが、「あの『SHAMBARA』を作った人と一緒にやってみたかった」という発言を、僕自身も過去、岡野氏とのレコーディングを経験している複数のミュージシャンの口から動機として聞いている。

▲1988年10月28日、東京公演のセットリスト。『SHAMBARA』に収録されている「Junk」がすでに演奏されている。
▲英国の『KERRANG!』誌、1988年12月10日号のアルバム評より。
同時に、前作ではあくまで“そこにある曲を全力でプレイする”しかない状態にあったMINATOの関与の度合いが、絶対的に違っている事実も重要だ。当時、彼自身も「前作では自分のことだけで精一杯。今回は全体的なことにまで気をまわす余裕が少しは出てきた」と語っており、岡野氏との作業についても「準備段階からすでに、面白いことになりそうな予感があった」ことを認めている。

ちなみに当時の僕は、ヘヴィ・メタル専門誌『BURRN!』の編集部に籍を置いており、同誌からは約半年に1度のペースで日本のバンドのみを扱う『BURRN!JAPAN』という増刊号が発行されていた。前出のMINATOの発言は、ちょうど『SHAMBARA』と同時期に発売された『BURRN!JAPAN VOL.2』の取材時のものである。

今になって改めて4人のパーソナル・インタビューに目を通してみると、MINATOが「MORRIEが歌っていればDEAD END、というような部分も出てきているように思うし、それによってバンドのイメージも鮮明になった」という意味合いの発言をしているのに対し、MORRIE自身が「自分が歌ってさえいれば、みたいな奢り高ぶったような気持ちはない」と語っているのが興味深い。COOL JOEの「いい意味で妥協している(=自分らしさを出すことばかり考えるのではなく、有効なさじ加減が重要)」、YOUの「歌謡界に乱入したい(=もっと広く自分なりのメロディを認められたい)」といった言葉にもドキッとさせられる。どちらも真意は、あくまでカッコ内に記したようなことではあるのだが、YOUは「できれば中森明菜に歌ってもらいたい」とまで発言していたりもする(し、当時の僕もそれに賛同していた記憶がある)。

『SHAMBARA』は、そもそも典型的メタル・バンドでもなければ、いかなる特定のカテゴリーに属しているわけでもなかったDEAD ENDの特性と可能性が大きく開花したことを象徴する1枚だと言っていいだろう。ちなみにこの作品も日本発売から数ヵ月を経てメタル・ブレイド・レコーズを通じてアメリカでリリースされ、同作を輸入盤として取り上げた英国の『KERRANG!』誌のアルバム評では、前作と同様に5点満点の4点を獲得。メンバー個々のミュージシャンシップや、類型的でない楽曲のアレンジなどを評価するなかで、THE CULTやTHE MISSIONなどが引き合いに出されていたりもする。MORRIEのヴォーカル・スタイルについての「(RAINBOWの)グラハム・ボネットと(THE MISSIONの)ウェイン・ハッセイの中間」という記述には少しばかり頭が痛くなるし、僕に言わせれば、同じRAINBOW人脈ならばボネットよりはロニー・ジェイムズ・ディオが引き合いに出されて然るべきではあるのだが。

そうした余談ついでにもうひとつ付け加えておくと、当時のDEAD ENDのファンクラブは“WASTELAND”という名称だった。THE MISSIONに同名の名曲が存在することは、改めて言うまでもないだろう。

増田勇一
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