短期集中連載:増田勇一のDEAD END回想録(1)『DEAD LINE』
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▲『DEAD LINE』のLPとピクチャー盤、CD、そして『Replica』のソノシート。近い将来、ここに『DEAD LINE』の新装盤が加わることになるのかもしれない。というか、それを心から熱望! |
僕が初めてMORRIEと会ったのは、この『DEAD LINE』がリリースされてからまだ間もない頃のこと。正確な時期までは記憶していないが、目黒のライヴハウス、鹿鳴館にTERRA ROSAを観に行ったところ、そこでギターを弾いていたのがYOUであり、2階席でそれを観ていたのがMORRIEだったのだ。話が少々複雑になってくるが、YOUは当時、TERRA ROSAに籍を置いたまま『DEAD LINE』のレコーディングに関与しており、この日のライヴをもって同バンドから正式に離脱することになっていたのだった。初対面のMORRIEと終演後に話をしたなかで、楽曲の充実ぶりについて絶賛すると「前のギターが書いた曲ですからねえ」的な、やや冷ややかな反応だったことを憶えている。
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▲激レア・アイテム登場。なんと昭和62年の年賀状!写真左からYOU、COOL JOE、TANO、そしてMORRIE。 |
『DEAD LINE』は、当時の国内インディーズとしては驚異的ともいえる20,000枚にも及ぶセールスを記録し、20,000枚突破を記念して制作されたピクチャー盤も予約のみで完売に至っている。さらに、のちにCD化(現在は廃盤)された際には、無料配布ソノシートに収録されていた「Replica」、シングルとして発表されていた「Worst Song」が追加収録され、我が家には『DEAD LINE』が3枚並ぶことになった。実際、LPとCDの正確なセールス総計については把握しにくいところがあるが、むしろ重要なのはそうした数字ではなく、この作品が残した影響の大きさ、爪痕の深さだろう。もちろんバンド自体がまだ未成熟な段階にあったことは否めない。が、MORRIEのヴォーカルにもYOUのプレイにも鬼気迫るものを感じずにいられないし、DEAD ENDという存在自体が特異だった。この作品がたくさんの子孫たちを生むことになった事実についても、改めて説明する必要はないだろう。このアルバムの“成功”を振り返りながら、1987年当時のMORRIEは次のように語っている。
「実際にはデモ・テープの代わりに作ったようなところもあるし、あれほど売れるとは予想さえしていませんでした。あのアルバムを作ってからすべてがスタートしたと言ってもいいくらいの状況でしたからね。特にメジャーへの足掛かりにしようといった意識もなかったし、とにかく音源を作ること自体が目的だったんです」
まさに無欲の勝利。そこには大それた策略も綿密な計画もなかった。しかしいつしか、『DEAD LINE』の実績に目をつけた大人たちが彼らを取り巻くようになっていた。そんなとき、バンドは最初の大きな転機を迎えることになる。体調不良などでライヴをキャンセルしがちな状況にあったTANOが脱退。その後任を決めるためのオーディションは1987年5月に行なわれている。というわけで、この続きは次回をお楽しみに。
増田勇一
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