マニックスを繋ぐ不滅の“絆”、話題の新作『ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ』に寄せて

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「僕らはそもそも単なる地方のロック・ファンで、さまざまなバンドが才能を枯れ果てさせてまでウンザリするほど長く活動を続けている例をいくつも見てきた。そういうことは、自分たちとしてはしたくない」

リッチー・エドワーズ、1992年5月の発言である。マニック・ストリート・プリーチャーズは、デビュー・アルバム『ジェネレーション・テロリスト』がリリースされたこの年に初来日を果たしており、僕はリッチーとジェイムズ・ディーン・ブラッドフィールドのインタビューを行なう機会に恵まれた。僕が彼らと話をしたかったのは、まさにリッチーからこの言葉を聞きたかったからだったと言ってもいい。 

南ウェールズ出身のこのバンドが最初に音楽シーンで注目を集めることになったのは、「世界中でNo.1になる30曲入りデビュー・アルバムを作って僕たちは解散する」といった、どこまで本気なのかが疑わしい類いの衝撃的発言が当時のメディアを賑わせたからだった。が、実際、『ジェネレーション・テロリスト』は2枚組でもなければ30曲収録でもなく、残念ながら母国UK でもチャートの首位奪取には至っていない。結果的にマニックスは、一部の人たちから“ほら吹き”よばわりされ嘲笑を浴びることになった。が、その発言を「ヨボヨボになってまで過去の栄光にすがりながら活動するようなバンドにはなりたくない」という意味なのだろうと解釈していた僕は、条件反射的にこのバンドの援護射撃にまわりたくなったのだ。というか、当然ながら、それ以前に彼らの音楽やたたずまいに惹かれていたから、というのが最大の動機ではあったのだが。

それから5年半近くを経た1998年10月、ふたたびジェイムズと話をする機会を得た。リッチーが謎の失踪を遂げてからすでに3年半以上が経過し、幅広い層から支持を集めながら確固たる地位を築いていたマニックスは、もはや当たり前のように“3人編成のバンド”として認識され始めていた。そのときのインタビューで作詞に関する話になったのだが、そのなかでジェイムズは自身とショーン(・ムーア/ds)のことを“最悪の作詞家”と形容し、十代の頃に“政治的なことに首を突っ込んだガキならではの史上最低の歌詞”を書いていたことを認めている。が、リッチーやニッキー(・ワイアー/b)が何かを書くと、最初からちゃんと“詩”になっていたのだという。

2人の詩人と2人のミュージシャン。マニックスは当初、そんな成り立ちだったともいえる。初来日時も、お世辞にもレヴェルが高いとは言えなかった演奏面での話になると、ジェイムズは「俺とショーンが必死に頑張っても、ステージ上を飛んだり跳ねたりするのに夢中で“プレイは二の次”のメンバーが2人ほどいる」と語り、爆笑を誘っていたりもする。

リッチーが姿を消してから、早くも14年と少々。彼が書き残していた散文を歌詞として引用しながら完成されたマニックスの最新アルバム『ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ』が素晴らしくて、音源が届いてからというもの、ほぼ毎日、日課のように聴き続けている。もはやこのバンドにまつわる上記のようなストーリーを把握していない音楽ファンもたくさんいるはずだが、そんな世代にも是非、触れてみて欲しい作品だ。

この作品を成立させているのは、クサい言いぐさにはなるが“4人の絆”に他ならない。余談ながらジェイムズは、前述の1998年の取材時にも、マニックスを成り立たせているのは“友情の重み”だと語っている。「ブラーみたいに緊張感を重んじるバンドは意識的にメンバー間の距離を置いたりすることがあるようだけど、俺たちは今も、親密すぎるくらい近いところにいる」と。それはもちろん、今も変わっていないはずだ。3人ではなく、4人の間で。

最後に、初来日時のインタビュー原文は『BURRN!』誌の1992年7月号、1998年取材分については『MUSIC LIFE』誌の1998年12月号に掲載されている事実を補足しておく。さて、次に彼らと話をすることができるのは、いつのことになるのだろうか? 心情的には5月25日から始まるUKツアーにでも飛んで行きたいところだが、とりあえずは7月に行なわれる<NANO-MUGEN FES.2009>で彼らに再開できることを心待ちにしていたいと思う。

増田勇一
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