【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話024「音源が売れなくなったワケ」

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なぜに科学が進歩するのかといえば、少しでも楽に、少しでも楽しく、少しでも豊かに、そして少しでもゆとりをもってモノゴトに対処したいからにほかならないよね。

私の両親は、戦後の高度成長の日本を生き抜いてきた世代だった。今まで洗濯板でゴシゴシ洗いタライで何度もすすいでいた母にとって、洗濯機はドラえもん級の夢アイテムだったし、常温でしか保管しようがなかった食料/食材を、自宅で冷蔵保管できるとか氷が作れちゃうといった冷蔵庫は、まさに夢のようなスーパーアイテムだった。三種の神器と呼ばれた「冷蔵庫」「洗濯機」「テレビ」とリアルタイムで対面し、時代の発展とともに、カラーテレビ、クーラー、自家用車へと刷新された三種の神器の恩恵もこうむってきた世代だった。

でも、母も父もいつまでもせわしなく働き続け、ゆとりは一向に増える様子は伺えなかった。生活費を圧迫するほど高額だった三種の神器を手にしたことで、獲得した「ゆとり」、削減できた「作業量」、生まれてきた「余暇」、やっと手に入れた「可処分時間」は、どこに行ったのか。なぜそれが実感できないのだろう。技術の進歩とは、そのためではなかったのか。

空いた時間で別なことを手掛けていたのだろうし、高度成長期はやりたい・やるべきことが山積していた時代だったのかもしれない。国民の誰もがGNPに貢献し、消費し進化し発展することが正義の時代だったから、当時の日本人にゆとりや余暇を求める気質はほとんどなかったのかなとも思っている。

国民みんなが求めていたアイテムが次々と発明・開発され、豊かな新時代を迎えるも、がむしゃらに邁進していたツケが回ったとでもいうべきか、公害が発生し、大気が汚染され、健康被害とともに温暖化を始め地球環境への配慮が求められるようになった。ベタ部み状態だったアクセルを外し、結構なブレーキが踏まれる事となった。その後の合言葉は省エネだ。

「無駄なエネルギーは使うな」という時代だから、がむしゃらな消費は影を潜め、出てきた余暇によって人それぞれの多様性も少しずつ顕在化し始めるようになった。みんながみんな必要としているわけではないけれど、一定の層には歓喜されるようなニッチなアイテムも、世の中に続々と登場し始めることとなった。そしてそれはインターネット・テクノロジーとかけ合わさり、とんでもない影響力をもたらすこととなる。「音楽制作ツール」がまさにそれだった。

そもそも元来のレコーディングにはとんでもないお金が必要だった。最もお金がかかるのはレコーディング・スタジオの使用料だ。そもそもスタジオの建設には、まわりのノイズを遮断するための高い防音性能を持たせた建設がマストで、スタジオの中は残響をコントロールする専門的な設計が欠かせない。しかもレコーディング機材の調達だけでも数千万円から数億円のコストが普通にかかる。エンジニアが常駐するレコーディングスタジオの使用料は、1980年代はたった一日で私が住んでいた安アパート1年分の家賃を余裕で超えていた。だからこそ誰でも使えるものではなかったし、わかりやすく言えば、プロと呼ばれるメジャーアーティストじゃないとスタジオには入れなかったし、つまりそれは「アマチュアにはレコードは作れない」という厳しい現実を突きつけるものでもあった。

カセットMTR(マルチトラックレコーダー)で楽曲を作りデモテープに仕上げるのが精一杯だったのが世のミュージシャンだったけれど、1990年代になるにつれアナログからデジタルへ変貌し、録音ツールがより身近になっていき、Mac OS~Windows 95の登場もあいまって、DTM(デスクトップミュージック)環境が急激に整っていった。そこからはまさに怒涛だ。PCの恐るべき進化スピードとネットの急速な発展によって、ミュージシャンの曲作り/サウンドメイクは、前時代とは比べ物にならぬほどの時間短縮・コスト圧縮と簡易化を可能にした。気付けばこれまでプロ御用達と言われていたスタジオ・クオリティのサウンドが、4畳半の安アパートで可能になるというパラダイムシフトが起こっていた。世界とも一瞬でつながり、場所も時間も費用も、音楽制作の障壁は霧のように消え去った。

録音する作業自体に変わりはないものの、音色やサウンドエフェクトなどはより簡便で自由自在になり、何より事前に音色を作り込んで決め打ちする必要がないだけでも、時間短縮と大きなストレスフリーが実現された。録音する回数も無限、自分ひとりで好きな時にできる環境は、ミュージシャンへ降りかかる不要な負荷を極限まで軽減してくれた。ライブラリの充実や昨今のAIをも考えれば、音楽制作環境の進化は、戦後の主婦が味わったであろうダイナミックな環境の変化にまさるとも劣らぬエポックな状況だと思う。蛇足ながら最大の功績を言葉にすれば、「ミュージシャンのひらめきをスポイルさせない」環境が提供されたことだ。



そして当然のように、「プロ・ミュージシャンの手助けをする便利アイテム」として登場したこれらの音楽制作システムは、「音楽的才能を補完する魔法のチートツール」として一般人にも活用され、ネット上にたくさんの音楽が溢れかえった。

もちろん、誰にでも簡単に音楽が作れて楽しめるなんて夢に見た世界だし、それ自体に悪いことは何ひとつない。子供が口ずさむ鼻歌だって音楽だし、それっぽい音楽が簡単にできて、誰でも表現者になれることに否定する理由もない。

この感じ、誰でも発言できて演出できて、誰もが人気者になれるチャンスを持っているSNSの環境と全く同じだ。これは、単に「一般庶民」と「神に選ばれしアーティスト」との境界線を測る物差しがなくなったということを意味する。もちろん境界線はある。だけどそれを簡単に知り得る手段がない。「プロ」か「そうじゃない」か…曖昧だったけれど、皆が共通して認識していたそんな明確な領域は消え失せた。すなわちこれは「録音芸術」が簡便に作れるようになった時点で、「録音芸術」がお金を生むことの困難さを意味しているのではないか。まして生成AIの存在をも考えれば、ミュージシャンに求められる重点ポイントは「作品作り」ではなく「音楽表現者」としての求心力とそのスキルに寄っていくのは、おそらく避けようのない流れだと思ったりもする。

ネット上では「突き抜けた美貌」で人気を博す人もいるけれど、「超絶メイクテクをもってビフォーアフターというエンターテイメント」で人気を博する人もいる。後者の手法を音楽に転じれば、誰でも手に入れられる機材で、変哲のない素材から名曲を生んでいくようなコンテンツも、ネットミュージシャンが作りうる魅力的なエンターテイメントだと思うし、音楽というひとつのパーツで、これまでなかったエンタメ/トレンドが誕生するのかもしれない。例えばずまの「音程が1ミリも合ってないやつ」なんてのも、突き抜けた才能とネット時代が噛み合った音楽エンタメの好例だ。まだ見ぬ新世代のミュージシャンのかたちは、まさにこれから誕生してくる…そんな時代に差し掛かっていると思っている。

そして実のところ、音楽そのものの存在もさることながら、その音楽にまつわるストーリーや息づいている人の息遣いとか人肌のぬくもりといった音源に絡みつく人間の熱量こそ、大きなムーブメントを作る欠かせないエネルギーであることは今も昔も全く変わらない。ライブにおいてもMCひとつで爆発的なうねりが沸騰することは、誰もが知っていることだろう。

つまりは大事なのは音楽にかけるパッション。そこだけは1ミリも揺るがない。

文◎BARKS 烏丸哲也

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