【コラム】wacci、「恋だろ」ヒット以後初のアルバムに“いつでもそこにいてくれる”魅力

wacciのメインソングライターである橋口洋平（Vo＆Gt）は、15歳、高校1年生の頃から立川や溝口の路上で弾き語りを始めており、それが彼の音楽活動の出発点であるという。今でこそ、路上で弾き語ればその様子をYouTubeやTikTokにアップする道もあるが、彼が15歳だった1990年代の後半は、今のようにSNSを使って個々人がカジュアルに発信する時代でもなかった。そもそも、街には音が溢れているものだし、道を行く人々にはそれぞれの人生と時間と目的があるのだから、ステージも照明もない道の片隅から「歌を聴いてくれ」と言ったところで耳を傾けてもらうことは難しいだろう。そんな環境のなかで、それでも目の前を行く人々の別々の人生と自分の歌が繫がる瞬間を求めてきた橋口の眼差しは、彼が路上で弾き語りを始めてから20年以上の歳月が経った今でも、wacciの音楽の中心に深く根付いているのだと思う。

wacciの新作アルバム『suits me! suits you!』は「恋だろ」のヒット以後最初のフルアルバムとなるが、自分たちの音楽に求められるものを最大限に受け止め、それに応えながら、なにかを虚飾するようなことはしていない、とても品のいいアルバムである。取って付けたような新しさを纏ってもいなければ、ヒステリックに聴き手を鼓舞したり、無理やり希望を押し付けたり同調を求めるような軽薄さもない。ひとえに成熟した、それゆえに繊細な手捌きによって紡がれた、自分の心と他者の心に向き合った果てに生まれた歌たちがある。滑らかな日本語詞と精緻なアレンジによって成り立つその歌たちが、聴き手と絶妙な距離感を保ちながら、ささやかに、あたたかに、そこに響いている。「いつでもそこにいてくれる」と思える、この安心感、さりげない上品さが、本作の大きな魅力になっている。

バンドの新たな代表曲となった「恋だろ」で綴られる、あらゆる鎧を脱ぎ捨てたあとに残る恋心の、柔らかく純粋な輝き。「まばたき」で描かれる、さりげない一瞬の間に溢れんばかりに胸の内に広がっていく、隣にいる人への慈愛の心。「あなたがいる」の、手紙のように親密で切実な筆致── 人が人と生きることの喜びと力強さを目いっぱい表現した歌たちがある。もちろん、歌になるのは力強い意志や美しく純粋な想いだけではない。日々の社会生活の中で「なかったこと」にしてしまう痛み、目を背けてしまう心のざらつき、掬い上げようとしても気づかないうちに手のひらから零れ落ちてしまう小さな揺らぎ── そういうものもまた、歌になっている。例えば、朴訥としたタイトルが印象的な「痛い」に綴られるのは、相手への想いの強さゆえに盲目的になってしまうエゴイスティックな心が生む、一種の悲劇である。また、「劇」の主人公は、自らの心を偽りながら生きる、その優しさゆえの弱さによってどうしようもなく悲しみの海に溺れていく。清濁併せ呑むように、名付けられることのない感情や、主人公になれない人々の姿を、揺れる心の動きそのままにwacciは音楽の中で照らし出していく。

そして、歌の中で照らし出されるのはwacci自身の姿でもある。「風」で歌われる＜今書いているこの歌が／また夢を叶えてはくれなくても／まだこの街を生きたい＞という一節は、橋口が長い年月の間、歌を紡ぐ度に抱き続けた想いなのではないか。また、本作で唯一、橋口ではなく村中慧慈（Gt）が作詞を務めている「フレンズ」は、衒いのない筆致によってバンドメンバーへの友愛の情が綴られているように思える。「トータス」はドラマ『駐在刑事Season3』のオープニングテーマだった曲だが、＜辞める勇気がなかっただけの日々も／これが僕の道だと胸を張っても いいかい＞と綴られる歌詞は、ドラマに寄り添うという以上に、バンド自身の自問自答の果てに浮かび出てきたリアルな言葉なのではないか。本作の最後を飾る曲のタイトルは「suits you」だが、アルバム全体のタイトルは『suits me! suits you!』。敢えて「me」という言葉も掲げているこのアルバムタイトルは、「これは、俺たちが俺たち自身を肯定するアルバムである」というバンドの意志の表明にも受け取れる。

ボーナストラックを含めて全15曲、豊潤な内容の作品だが、個人的には1曲目「風」から2曲目「恋だろ」に至る流れがとても好きだ。人々の生活の中を吹き抜ける都会の風を愛し続けたバンドが、まさに人々の生活を吹き抜ける「恋だろ」のような大きな1曲を作り上げたことに、とてもドラマチックなものを感じる。裏を返せば、「恋だろ」のような1曲が産み落とされる背景には、いつだって、＜今あげているこの声が／また僕を何者にもしなくたって／まだこの街を生きたい＞と歌われる「風」のような孤独な覚悟があり続けたということだろう。どんな目に見える正しさや根拠がなくてもいい。あなたが生きてきたことも、俺たちが生きてきたことも、間違ってなんかいない── このアルバムにひっそりと滾るそんな意志の強さに、私はとても惹かれる。

文：天野史彬