【インタビュー】信州新町をナッシュビルに変える男たち、│田 bo:ta(ボータ)の100年計画

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ここに4人の若者がいる。│田 bo:ta(ボータ)と名乗る音楽グループであり、同時に長野・信州新町に拠点をおき、音楽と伝統建築再生を軸とした地域のプラットフォーム造りに挑戦するプロジェクトメンバーだ。

彼らは、長野の信州新町を日本におけるナッシュビルであれと、100年レベルの構想をたてて活動をスタートさせている。ミュージシャン3人とデザイナーひとりをメンバーに持つ│田 bo:ta(ボータ)とは、どういったバンドなのか。そして彼らは何を感じ、何を見据え、どこに向かおうとしてるのか。

若きエネルギーを心の奥に携えて一歩一歩を重ねる彼らに、話を聞いた。登場いただいたのはプロデューサーを務めるKOHKIと作曲の森宗(兄)&作詞の森幹(弟)という3人のミュージシャンだ。10月16日には、│田 bo:ta(ボータ)にとって初めてとなるアルバム『二〇一九』も登場する。



──│田 bo:ta(ボータ)というプロジェクトはどのようにスタートしたんですか?

KOHKI:一緒にやろうぜってなったのは去年か。

森宗:2021年の8月くらいですかね。

KOHKI:曲作り自体は2019年くらいから作った曲が今回のアルバム『二〇一九』に収録されているんです。ただ、単なる音楽活動だけではなく「これはひとつのプロジェクトになりうる」と話がまとまってきて今に至ります。曲を作っていた時点では、森兄弟が伝統建築の家を持っていることなど知らなかったんですけど、親しくなって話をしていくうちに「こんなすげえ家に住んでんじゃん」みたいな話になってきて。

森幹:親しくなっていくうちに家のことや音楽やいろんなことがリンクし始めて、ただ「バンドをやろうぜ」ではなく、ライフスタイルも含めたプロジェクトになっていったんですよ。

──そもそもの出会いは?

KOHKI:僕は15歳の時にプロとしてメジャーデビューをしたのを機に、信州新町の土蔵の中にスタジオを作ってそこを拠点にプロデュースやアレンジメントなどをやっていまして、森兄弟とは直接的な面識はなかったんですけど、彼らは│田 bo:ta(ボータ)の前身となるようなロックバンドを演っていたんですよね。

森宗:僕がギター/ボーカル、弟がベースで、どちらも曲を作りながら一緒に活動していました。

KOHKI:で、もうひとりの│田 bo:ta(ボータ)メンバーでデザイナーを務めるNIBO君がそこでドラムを叩いていたんですけど「このままじゃ…きついよね」と私から先輩アドバイスのような形で口を挟みまして(笑)、いったんバンドが解体されたんです。で、ドラム・ベース・ギターというバンド形式のスタイルにとらわれずに、思いつくままをDTMで作ったほうがおもしろいんじゃない?ってPCでの曲作りを勧めたら、森宗が見違えるような曲を作ってくるようになったんですよ。「おおっ」と思ってそこから…だよね。その曲たちが今回のアルバムに入ってきているんですよ。

──いったいどんな曲を作っていたんですか?

KOHKI:「なんだこれは」と思いました(笑)。びっくりしたのは、和声が全然整理されてないんですよ。理論的音楽教育も受けていないからか、ハーモニーがぐしゃぐしゃなの(笑)。なんだけど、それがそのままひとつの表現になっていて、色気にもなっているんですよね。最初は「変わった感じだな」と思いましたけど、日本の伝統音楽とか地方(じかた)の音楽といった世界線で見てみると、もしかしたらこれは「いわゆる西洋音楽の教育を正当に受けていない日本人の内側から出てきた、ハモりっていう概念のない無調性音楽がポロッとにじみ出てしまった?」みたいな、そういうものとして聴くと実に面白いんではないかと。

──と、プロデューサーは言っていますが。

森宗:バンドが解体した後、少し埃をかぶっていた楽器とかドラムマシンとかシンセとかが家にあったので、今あるもので何か作ってみようかなって思いまして。同時に、今まで西洋音楽コンプレックスがすごく強くて、それのモノマネでしかなかった気がしたので、もうちょっと自分の血に流れているものをちゃんと表現したいなと思って、まずはドラムっていうのをなくしました。その中で曲のダイナミクスみたいなものを再現してみようかなっていうのが、最初の始まりで。

KOHKI:彼の家に遊びに行ったときにそれを聴いて、「この方向性は良いんじゃないか」と感じました。発売する音源にたどり着くまでのあいだ、自分なりにはいろいろ考えましたね。このぐしゃぐしゃ加減・無調性加減をどれくらい調性するのがいいのか、プロデュースしすぎてもおもしろくなくなっちゃうし、未整理なまま出せるところは出したいし。


──バンド時代とは全く違う音楽性に変わっていったのは、どういうきっかけがあったからですか?

森宗:やっぱりKOHKIさんからの影響も大きいと思います。日本の音楽に興味がいったのも、もともとはKOHKIさんがそっち方面に力を入れていたのがきっかけですから。

KOHKI:僕も彼らと同じようにザ・ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、デヴィッド・ボウイ…とその線で来ていたんだけど、もともと民族音楽にも興味があったし、やっぱり自分自身のライフスタイルですよね。日本の伝統音楽に係わるようになるタイミングで、自分の曽祖父の古民家をリノベーションし始めて、そこで雅楽の団体を宮内庁から招いてみたりもしていました。仕事も和楽器関連のアレンジの方が多くなって、それこそ日本コロムビアからリリースされた佐藤和哉という篠笛奏者のアルバムを、僕のスタジオで作ったり。信州新町という長野の田舎でそういう活動をしていたので、田舎のちょっと年上の先輩がそういうことをやっているのを彼らも見ていたんでしょうね。

森宗:2年前に、友人と一緒に何か作ろうと映像に音楽をつけたことがあるんですけど、そのときに作った曲がすごくアジア的な空気があったんです。それがパーカッションは入っていたけどドラムは入っていなかった。全然目新しいことではなかったんですけど、自分的には「ここ、おもしろいな」「今までやってきてなかったな」って思ったんですね。ドラムを他の人間がプレイするとその型にはまってしまうけど、ひとりでやるとなると自分の妄想をすべて具現化できる点がおもしろく作用したのかなとは思いました。

──思うがままに自由に?

森宗:そうですね。せっかく機械でやるんだから、人間じゃやらないような音を出したほうがおもしろいって思いますよね?僕はそう思いまして。

──それは自己表現のため? それとも他者に聴かせるためのもの?

森宗:最初は単に弟とふたりで、自分たちが楽しくおもしろいと思うものを家でずっと作ってました。で、曲ができたらKOHKIさんに聴かせていたんですよ。

KOHKI:デモテープをずっと聴いてきましたけど、かなりイッちゃってるんですよ(笑)。仮歌を森(宗)君が吹き込んで、それを弟(幹)が聴いて歌詞を書いて、歌詞を書いた幹がもう一回吹き込み直すんだっけ?それを兄貴がもう一回歌い直すみたいな感じなんですけど、なかなかカオスでしたね。

──でも「これはおもしろい」と。

KOHKI:そうですね。そうやって出揃った曲は、まさにオフィシャルな音源としてまとめるに値する曲だと思いました。そう思わなかったら、一緒にやろうとはならなかったと思うんです。彼ら(森兄弟)はアルバムで2~3曲歌ってますけど、そんなに歌がうまいわけでもないので、僕が歌うなり…僕もそんなうまいわけじゃないけど、ゲストボーカルを呼んだりして、この楽曲のおもしろさが皆さんに伝わるように制作を進めた感じですね。

──そうやって│田 bo:ta(ボータ)が生まれたわけですね。

KOHKI:そこにライフスタイルとか古民家を中心とした動きがシンクロしたんです。そもそも2~3年前から「信州新町ナッシュビル化計画」という発想を持っていまして、東京に出て売れて田舎に凱旋するのではなく、長野に住んだままどこまで中央とリンクできるか。人を惹きつける力とか求心力を、地方に住んだままどこまで持てるかという限界ゲームみたいなことを考えているんです(笑)。実際、信州新町の築200年の土蔵スタジオで録音されたアルバムが日本コロムビアからメジャー流通されたり、その流れで『題名のない音楽界』に出演したりしたので、地方に住みながらもそういうことは可能なんだという感覚があったんですね。そもそも人がやってないことをやったほうが単純に人生おもしろいとも思いますし。

──ナッシュビルという街を掲げたのは?

KOHKI:ナッシュビルに行った知人から「音楽産業のメインはロサンゼルスやNYだけど、実はナッシュビルに作家とかスタジオがいっぱい集まっているんだよ」といった話を聞きまして、なるほど、じゃあ100年計画くらいのノリで信州新町をナッシュビルにできないかなと。NYやロサンゼルスに対してのナッシュビル、なら東京に対しての信州新町という音楽ファクトリーがあり得ないかと。メインストリームの音楽に食い込めなくても、こういう考えの仲間がどんどん増えていって、例えば僕がやっている和楽器系の音楽でもいいし、ある特定のジャンルやサウンドに関しては、「東京よりも信州新町っていうところに、その手の音をやらせたら良いもの作る連中がいっぱいいるんだよ」みたいな、スタジオもいっぱいあって古民家も泊まれるようになっていて、「なんかあそこに行くと良いことあるらしいよ」みたいなノリですよね。僕が生きているうちにはできないかもしれないけど、50年後100年後ぐらいに「東京も良いけど、その手の音楽作るなら信州新町かな」みたいな話がちょっとでもささやかれたら本望だな。

──ギター好きにとっては、ナッシュビルといえばギブソンの街でもありますね。

KOHKI:A&R(アーティスト・アンド・レパートリー)という職務がレコード会社にあるんですが、その概念ってもともとナッシュビル由来のもので、アーティストは歌を歌うだけ、作曲家は曲だけ作る。アーティストがいてレパートリー(楽曲)があって「このアーティストにこの曲を歌わせたらヒットするんちゃうか」と、両者をつなぐ仕事がA&Rなんです。それがナッシュビル発祥の概念なんですよ。ホテルみたいな個室がたくさんあるところに作曲家を住まわせて一斉に曲を書く。そのビルに100人作曲家がいたら1日100曲生まれるわけです。その大量のギガファイルをNYやロサンゼルスに送って「これどう?」みたいな。大量の曲を次々聴いて「これをあのアーティストにこういう風に歌わせたら…全米No.1ヒットだ」みたいなシステムは、ナッシュビル発だったんですね。

──ナッシュビルがミュージック・シティと呼ばれるのは、そういうことなんですね。

KOHKI:そんなことを考えているうちに、自分の家のリノベも整ってきたんですけど、そのタイミングで出会った森兄弟の家が、とんでもない古民家だったという。

──築170年の伝統建築の旧家なんですよね。







森宗:今回、実家をリノベーションして人々が集えるプラットフォーム/歴史・資料館にすることになったんですが、そもそも東京に上京するときも、実はこの実家が悩みの種だったんです。「あの家どうする?」と、むしろ重荷になっていた。

──簡単に潰すわけにもいかないでしょうし。

森宗:潰したくはないけど、でも固定資産税もなぁって悩みの種だったんですけど、│田 bo:ta(ボータ)のプロジェクトで、すべてがスパンとひとつにまとまって、音楽・家・コンセプト…自分が求めていたものすべてがマッチして「ああ、これが僕の求めていたものなんだ」ということになった。そこからさらに日本の文化にハマっていくんですけれどね。

──なるほど、すべてのパズルがハマったわけだ。

森宗:日本人のみんなが日本の伝統建築を持っているわけではないので、だから持っている人は責任があるんじゃないかとすら思って。日本古来の良さが忘れられていく…といっても価値観も色々変わるし、押しつけがましくやりたくはないんですけど、自分たちの活動が少しでも世間に見えたら、なにか見え方も変わるんじゃないかなとも思うし。


KOHKI:でもね、│田 bo:ta(ボータ)では日本の楽器を直接使うわけでもなく、プログラミングで全部やっていますし、本来三味線の音でやるべきかもしれないみたいなところも機械音になっていたり、篠笛でやりそうなメロディがエレキギターになっていたりと、あえて和楽器を使わない面白さもあるんです。

森宗:持っていない楽器をDTMで安易に使わないほうがいいですよね。最近は和楽器も人気ですけど、安易にただ上乗せしているだけなのはちょっとどうかな…と思います。

KOHKI:僕は和楽器系の奏者とかのプロデュースが仕事のメインですけど、洋楽に乗せた和楽器ニューエイジ系みたいなものに関しては、疑問を持っているんですよね。無調性でハーモニーの概念すらないカオスの中にあるのが日本の伝統音楽だったんですけど、そういう楽器を調性のある西洋音楽に乗せる事自体、アイデンティティを失っていることになる。西洋音楽のフォーマットの中に押し込まれた和楽器のほうが、今の日本人にも理解しやすいので、そっちのほうがお金も回りますけど、「それでいいのか」という疑問はずっと持っています。そこに対しても問題提起をしていかないと、なんのためのアーティストやねんって思いますし、僕らはわざわざノンサラリーマンという茨の道を選んだわけですから、選んだだけのことはあるわ!ぐらいの問題提起をしていかないといけなくて。

──アルバム『二〇一九』は、楽曲が生まれた年をタイトルにしているんですか?

KOHKI:ちょっとねじ曲がった話なんですけど、曲というより、2019年末を境にコロナが始まって、そこで既存の道でやっていく方向を選んだ人たちと、僕らみたいに、例えば田舎をライフスタイルのベースとしていくような、人間として大きく方向性が枝分かれしていくイメージがあって、それが2019です。僕らはこっちに来て、来てない人はそのままいて、そこでパラレルワールドが生まれる。それがたとえば東京と地方だったり。パラレルに枝分かれして、コロナあたりから時間の感覚が倒錯している。3年ぶりに友達に会ったと思ったら、実は6年ぶりだったみたいな。コロナの2~3年間でそこだけぐにゃっと時空が曲がっちゃったような感覚があるんです。その時空がねじ曲がっちゃった感じは、│田 bo:ta(ボータ)の音楽性にも覚えるんですよ。そのへんのイメージを全部まとめて『二〇一九』。そういうタイトルのアルバムが2022年に出る…こいつらだけ3年時間ずれてるぞ?(笑)、みたいな感じです。

森宗:このタイトル、最初は猛反対しましたよ(笑)。

KOHKI:最初は嫌がっていたけど、だんだん…。

森宗:変えたかったんですけど代替案がなくて。なんかすごくモヤモヤするんですよね、なんか良いのか悪いのかだんだんよくわからなくなってきて、最後は、これが良いのかもしれないみたいに思ってきて(笑)。

──今回の作品を引っ提げてのライブはあるのですか?

KOHKI:バンドっぽい音楽じゃないので、YMOみたいなスタイルになるのかクラフトワークみたいにやるのか、具体的なことはまだわからないんですけれど、でもライブは展開していこうとは思っています。レコ発記念的なライブもいいんですが、それ以上に信州新町でこの音楽をどのように提示していくのかに興味があるんです。たとえば8月15日に信州新町の花火大会があったんですが、花火大会のサウンドトラックを生演奏で手掛けました。花火が打ちあがっている絶景の河川敷で、森家から出てきた螺鈿や象牙で飾られた琴や三味線、太鼓、エレキギターを使って。和的なアンビエント音楽なんですけど、いわゆる純粋な地方(じかた)とも違う感じですね。

──おもしろそう。

KOHKI:一番は花火の情景にマッチすることが大事で、僕たちの音楽を聴けっていう感じではないことです。花火を見に来た人が「なんか三味線の音聴こえた?」みたいな感じ。聴こえるような聴こえないような、でもなんかステージがあるようなないような感じで、その街に溶け込んでいくような音楽がいいと思っています。

森宗:あれは即興なので、たまたま花火のタイミングが合うと、めちゃくちゃおもしろいんですよね。

KOHKI:今回は、2時間ぐらいある花火の時間の中で、5~6回点々とやっただけなんですけれど、ゆくゆくは2時間分のサウンドトラックを手掛けていけたらいいなと思っています。


──この街にあるべき情景という意味で、そこに息づく音楽の姿や溶け込んでいる旋律というものは文化そのものですよね。

KOHKI:僕は勝手に「新しい民族音楽の時代」と呼んでいるんですけど。

──「新しい民族音楽の時代」?

KOHKI:今まではザ・ビートルズとかを頂点としたザ・音楽産業がありましたよね。でももともとは、沖縄に行ったら天才ミュージシャンってどこの家にもいたんです。どこにでも三線があってね。ブラジルもそうですね。天才だらけでスターが生まれない。一般的な人が音楽を楽しむレベルが高すぎて、特にこれといったスターが存在しえない世界です。そこから音楽産業がシステムになって素晴らしいものも生み出されて、僕らもザ・ビートルズを生み出してきたようなシステムの魅力に取りつかれてここまで来た。でも結局それが今「ニッチ」になってさらに細分化が起こっていると思うんですよ。わかりやすく言うと、沢田研二というひとりのスターに100万人のファンが付く。100万人がひとつのものを拝むのがこれまでの産業。でも沢田研二の中にはミック・ジャガーぽいところ、デヴィット・ボウイっぽいところ、「時の過ぎゆくままに」みたいな演歌的な側面も持っていたわけで、ひとりの沢田研二が10組のニッチなアーティストに枝分かれして、10組のアーティストを10万人ずつが応援すれば、トータル100万人は変わらないけど、応援の仕方が大きく変わる。それがどんどん細分化されていくと、それは1000分の1ぐらいの影響力の小粒な自主製作でも必ず1000枚は売れる、というような世界です。それでその人たちは生活が回っていく。更に進めば、誰も知らない1万分の1ぐらいの存在感の活動でも確実に100人の村人が僕らのことを応援しているというかたち。その応援というのはもしかしたらお金でもないかもしれない。大根を持ってきてくれるのかもしれない。おすそ分けかもしれない。それでも良いかもしれないですよね。それって要するに、音楽が産業になる前のただの民族音楽の状態に戻っただけだよねっていう考えなんです。だから「新しい民族音楽の時代」。

──なるほど。

KOHKI:昔と違うのは、YouTubeやSpotifyなどで世界に向けて窓口だけは誰にでも開いているということ。開いているだけで、みんなが売れるわけじゃないけどね。僕は今も一応プロとして食ってますけど、│田 bo:ta(ボータ)というチームが、音楽のプロとして飯を食う形を目指すことが正しいのかどうかもわからない。100人が大根を持ってきてくれる状況を作ることのほうが、僕らがやりたいことには合っているのかもしれないですよね。どうなっていくんだろう。僕も全然まだわかっていないですよ。

──そもそも音楽家なんて、お金持ちになりたくて選ぶ職業じゃなかったはずだし(笑)。

KOHKI:意義があることって、だいたいはすぐにお金にならないことが多い。だけど、お金にならない生活を支えてくれるのが地方なのかなっていうところもある。実家には家賃がないですからね。志とか意義が成熟するまでには時間がかかるし、その意義が高ければ高いほど認められるまで時間がかかる。その間もずっと家賃を払い続けて、でも結局頓挫しちゃう可能性が高い東京に対して、時間がかかってもその時間を担保できるという大きなメリットが地方にはありますよね。そういうところも含めて、音楽家が地方で活動するのはいいんじゃないかと思うし、僕ら以外にもそう思ってくれる人が増えたりしたらいいかな。

──ナッシュビルには「ナッシュビル・チューニング」があるように、名物「信州新町チューニング」が生まれたらステキだなあ。

KOHKI:それもありですね。…実は僕、自分のオリジナルチューニングをひとつ持っているんですよ。もともと世界中の民族音楽を演奏するために作ったチューニングで、和もできるしアフリカもできるしインドもできるというおもしろいチューニングなんです。キャッチーではないかもしれないですけれど、結構独特で。

──それはいい。それでいきましょう。

KOHKI:信州新町はトランペットスピーカーから町内放送が流れるんですけど、周りが山ばっかりなので、ものすごくエコーするんですよ。こっちの山に響いたのがまたこっちの山に響いて。湿度とか気候によって音の増え方が変わるので、毎回ディレイタイムが変わるんですよね。

──そのアンビエント感がアイデンティティになっている。

KOHKI:そうなんです。僕らの音楽って「サイケデリックで空間的な音作り」と言われるんですけど、実は、山々にエコーする里山サイケデリックなんですよね(笑)。ディレイじゃねえぞ、山のエコーだぞ、みたいな。生まれたときからそのエコー感で育ってきているので、たぶん僕らが音を作ると勝手にそういう音像になっちゃうんです。

──最高じゃないですか。

KOHKI:そうなんです。そういうものを大事にしていきたいですよね。




|田(bo:ta)1stアルバム『二〇一九』

2022年10月16日発売
1.ものはためし
2.ドーラン 其ノ壱
3.灯籠
4.暮らし
5.ヒカリゴケ
6.身代わり
7.叱り
8.ドーラン 其ノ弐
9.あゝだこうだ



『二〇一九』に寄せて──プロデューサー・KOHKI
ボータの全作曲を手掛ける森宗が、バンド形態という制約を手放し、プログラミングによる作曲を始めた頃。『二〇一九』の原型となるいくつかの曲を聴き、その和声のイビツさに戸惑った。狙っているわけではなく、自然に「調性」から外れているような感覚。またそれを特に「気にしていない」ような表情で、雑然とした音のカタマリが鳴っていた。

時は流れ、日本舞踊の公演を鑑賞する機会があり、地方(じかた/伴奏者)の奏でる音楽に、とても感銘を受けた。しかし、日本の伝統音楽に類するそのアンサンブルは、ここ百数十年で極度に西欧化された我々の耳には、とてもイビツに響く。西欧音楽の枠組みに無意識に当てはめ理解しようとするが故、そのシステムの外にある音を楽しめないのだ。ところが「音楽と、ただの物音」の中間のような環境音として捉え「気にせずに」聴くと、自然に受け入れる事ができる。裏を返せば、自国の伝統音楽さえ「物珍しい一風変わった、システム外のもの」として享受するようなオリエンタリズム的視座を、日本人自身が内面化して久しいという事でもある。我々が我々を理解するには、もはや「努力」が必要なのだ。

話を戻すと、地方(じかた)の音楽のイビツさにふと「聴き覚えがある」と感じ、反射的に思い出したのがボータの楽曲だった。『二〇一九』に収録の「ドーラン其の弐」は、ある意味アルバムの中で最も未整理かつ、壊れかけたような和声を含んでいるが、音の帰結点が見えそうで見えないその惑わしさに、地方との親和性を覚えた。

日本の伝統音楽に見られる、主音を規定しない、もしくは規定しなければならないという意識自体がない、という柔軟性。これは宗教観の延長線上にあり、唯一神か八百万かという根源的な精神性及び、それを生む土壌と深く結び付く、と仮説を立ててみる。「主、とそれ以外」を明確に分け隔てる精神性が反映された西欧の「調性音楽」に対し、古来の日本音楽は「日本的無調性音楽」とも言うべき興味深い特性を持っていた。

それはシェーンベルクらの意識的な無調性音楽とも異なるカオスだ。調性音楽という前提への作為的なアンチテーゼである無調性音楽に対し、調に整合性があるべき、という発想自体が無く、そしてその事を特に問題としない、という「混沌」に日本音楽のアイデンティティーがある。つまり「無意識的・無調性音楽」。我々ニッポンの音楽家の前には、一生を費やして取り組むに値する謎がそびえ立っているが、その特異な研究対象が他ならぬ我々の血や細胞と歴史そのものである事を、長らく忘れてきたのだ。

個人的に森宗の存在を、可笑しみと哀れみを込め「日本的無調性音楽の生態サンプル」と呼んでいる。主に西欧のロック・ミュージックを影響源として育った彼だが、音楽を学理的には理解していない。そんな、調性という概念が欠落した一日本の音楽家が、形式的には西欧楽器というツールを手にするも、なお血に内包された日本的無調性が自然と顔を覗かせる。和・洋、二足の草鞋を履きこなせないイビツな音楽家の有り様、そこにこそボータの楽曲の面白さを感じた。そして彼はそれらの事を、あまり「気にしていない」風である。このような音楽的人体サンプルは、ある意味貴重とも言える。

日本的無調性音楽を、現代に応用可能なファクターとしてどのように客体化するのか。そんなプロデューサーの無謀な理念に哀れにも巻き込まれたボータは、なんともケオティックな挑戦の入口に立ってしまった。『二〇一九』は、そのほんの序章に過ぎないが、とても興味深い一矢である。

◆|田(bo:ta)オフィシャルサイト
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