【インタビュー】植田真梨恵、11年越しの“ユーフォリア計画”完遂「死ぬまでに作り上げたいと思っていました」

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植田真梨恵が9月21日、アルバム『Euphoria』とライブ映像作品『LIVE TOUR 2021 [HEARTBREAKER]』をリリースした。“ユーフォリア計画”なるものが明かされたのが今年春のこと。アルバムリリースに先駆けて5月より、「“シグナルはノー”」「ダラダラ」「BABY BABY BABY」といった『Euphoria』収録3曲が3ヵ月連続デジタルリリースされた。そして遂にリリースされるアルバムは、植田真梨恵本来の姿がそのまま投影された仕上がりだ。豊潤なメロディーとこだわりの言葉による世界観があまりにも濃厚。また、今作では初めて楽曲アレンジにも名を連ね、自身の頭の中で鳴っている音がより忠実に再現されたという。

◆植田真梨恵 画像 / 動画

本人のコメントによると、「この計画は、このアルバムを無事にみなさんに届けるための計画的なのでした。ようやく言えます。11 曲入りのアルバムを作りました。11年前からずっと作り遂げたかったアルバムで、今までの学びと経験と、今まで長きにわたって私の音楽に付き合ってくれているスタッフや、仲間との関係性が育っていたから作れたアルバムです。部屋に遊びに来てもらうような気恥ずかしさと、距離の近さを持った曲たちかなと思います。みなさんに愛してもらえるかはわかりませんが、私の音楽として極めて自然な姿でのものが出来上がりました。みなさんに聴いてほしいなと思います」とのこと。アルバムコンセプトはこのコメントに尽きる。

余計な装飾を捨て、好きなものや良いと思うものだけを詰め込んだという植田真梨恵100%濃縮還元作品の完成だ。先行配信シングル3作のミュージックビデオも、アイデア出し、絵コンテ、小道具制作、編集立ち会いなど、映像にも植田自身が表現のすべてを注ぎ込んだ。約1年ぶりのBARKSインタビューでは、11年前に遡って“ユーフォリア計画”の源流を探りつつ、アルバム『Euphoria』についてじっくりと話を訊いた。

   ◆   ◆   ◆

■自分が無理なく一生歌っていける歌
■私が良いと思うものだけで作ったアルバム

──2022年5月から“ユーフォリア計画”と題して、「“シグナルはノー”」「ダラダラ」「BABY BABY BABY」といったシングルを3ヶ月連続で配信リリースをしてきました。そしていよいよアルバム『Euphoria』の完成です。今回のアルバムは11年前から作り遂げたかったアルバムだと聞いていますが、実際にこの“ユーフォリア計画”が実現に向かって動き出したのはいつ頃だったんですか?

植田:今年に入った頃、マネージャーとこの1年間どんな感じで動いていくか、などいろいろと打ち合わせをしていたときに、「植田さん、“ユーフォリア”って作らないんですか?」と言ってもらって。私自身は、死ぬまでにいつか作りたいな、いつか絶対作ろうと思っていたくらいだったので、“え? もう?”と思ったんですけど。でも、“もう?”とか言ってたらずっと作らないだろうなと。であれば、やりますかという感じで、はじめました。


──“ユーフォリア”という言葉もそうですけど、作品へのイメージというのは何かしら火種のようなものがあったんですね。

植田:そうですね。11年前、20歳になってすぐくらいの頃にちょっとスランプになっていて。「心と体」とか「センチメンタリズム」ができて、これから世に出ていくよというタイミングだったんですけど。当時は10代の焦燥感とか、大人になっていく過程での何者でもない自分のリアルな気持ちを作品に落とし込んだ情緒不安定気味な曲を書いていたと思うんです。それはそれでリアルだけど、こういう曲を一生私は歌っていくのかしら? こういうリアリティでずっと突き進んでもいいのだろうか?と思ったりして。いつかその気持ちにリアルさがなくなるときもくるだろうし、本当の気持ちばかりを描写する以外に、自分が無理なく一生歌っていける歌……一言でいえば“いい歌”をもっと作りたいなって。そう思ったら、スランプになっていたんです。

──“いい歌”というとても大きなものに対して、何をしていいのかわからなくなっちゃったんですね。

植田:そうですね。単純に“いい”の基準がわからなくなって。何を書いていったらいいだろう?と思った後、夏の手前くらいのタイミングで、「ダラダラ」と「最果てへ」という2曲が連なってぽんぽんと生まれたんです。その感触が、今までの自分の曲作りの“いい”のジャッジとちょっと違っていて。私がおばあちゃんになっても、ずっと歌い続けたい素敵な曲ができたと思って嬉しかったんです。その2曲ができたら続けて、「BABY BABY BABY」と「“シグナルはノー”」ができて。それから「エニウェアエニタイム」と、この5曲が兄弟みたいに出てきたんです。じゃあこれをひとつのアルバムにして、タイトルは“ユーフォリア”にしようってその時に決めていました……ユーフォリアはずっと好きだった言葉だったんです。

──ユーフォリア(イタリア語)は、幸福感とか多幸感という意味ですね。

植田:あと陶酔感とか。そういう言葉をアルバムのタイトルにつけて、私の好きなもの、私が良いと思うものだけで作ったアルバムにしたいな、だけどそれは今すぐじゃなくて、死ぬまでに作り上げたいなと思っていました。


──「最果てへ」と「ダラダラ」は、メジャーデビューしてからのシングルにデモバージョンとして収録されましたけど。そこからもまた何か葛藤というか、そういうものは生まれていくわけですか?

植田:ユーフォリアの曲たちができて、その3年後にメジャーデビューとなっていくんですけど。ユーフォリアの曲たちはメジャーデビューの一発目で出すような曲では全然ないなと自分でも思っていたんです。インディーズ時代の「センチメンタリズム」とかを書いていた時はフックがあるとかキャッチ―とはみたいなことを考えながら曲を作っている部分もあったんですけど、「ダラダラ」とかユーフォリアの曲たちは、面白いワードとか耳に引っかかるような言葉とか、仕掛けみたいなものを入れている曲では全然ないので。

──なるほど。受け手のことを考えたわけですね。

植田:覚えやすいとか、そういうものとはかけ離れたところにある曲で、人にどんなふうに届くのか全然わからなかったですね。ある種とっても自己満足的に作っている曲たちだから、メジャーデビューのタイミングで出していくとはまったく思っていなかったんです。いつか活動の中で落ち着いてきたら出せるのかな、みたいな。ただメジャーデビューを見据えて「彼に守ってほしい10のこと」の制作を始めた頃から、あえてアレンジャーを立てずに、バンドでスタジオに入って音を合わせてアレンジを決めていったりとか、ソロなんですけど、なるべくバンドライクなこともしながら、ラフスケッチからアレンジを進めていくやり方もはじめていたんですね。曲によって試行錯誤しながら作品作りを重ねていって、レコーディングの中で自分で出来ることや見えるものが増えてきたということも大きいです。それに、メジャーデビュー後しばらくは、アップチューンとかそれこそフェスでやりたい曲、派手な曲、軽快な曲みたいなものを作っていったほうがいいんだろうなとも思っていましたし。

──ある種、自分の音楽をもう一回作り上げて行くみたいな段階でしょうか。

植田:そうですね。自分では“ユーフォリア”はいつかやりたいことだけど、今じゃなくていい、もっともっと先のことと思っていました。


──今回の『Euphoria』に至る前、2020年にリリースしたアルバム『ハートブレイカー』では、いろんなソングライターの方と組んで、自分の曲作りなどを客観的に捉えるような時間もあったと思います。今振り返って、あのアルバムはどういう経験になったと感じていますか。

植田:自分が思っていることを自分でリアルタイムに感じながら、喋ったりアウトプットできているわけじゃないっていうことを強く思いました。というのは、曲を書いて、それを例えば作品にしたりミュージックビデオにしていく過程で、その曲のテーマや根底にあるものを見つけて、歌っていたんだなってことに改めて気付いたというか。だから、人様に曲を書いていただくことにとても自分の中では憧れがあって、曲をいただいて歌詞を書いたり、歌詞すらもいただいたりしたんですけど、その曲と同じ立ち位置に立っていくまでに、自分自身で曲を書いて模索しているとき以上に時間がかかったりもして。でも抽象的なものを見つけるという過程自体が、私は結構好きなんですけどね(笑)。

──探っていく時間の面白さはありますよね。

植田:後になって、“あ!それってこういうことだったのか”ってつながる瞬間が好きなんですよね。自分で書いて表現することと、人に書いてもらって表現することでは、全然表現が違うなっていうのは感じましたね。

──そういう新たな経験もあって、マネージャーさんが「“ユーフォリア”は作らないんですか?」と言ってくれたこともありますが、“ユーフォリア”という作品にたどり着けそうだなっていう感覚が芽生えたんですか?

植田:うーん、本当に全然考えてなかったんです(笑)。

──アルバム『ハートブレイカー』以降は、植田さん自身のプランみたいなものはあったんでしょうか?

植田:なかったんですよね(笑)。結構、どうしよう?と思ってました。『ハートブレイカー』というアルバム自体、ヒット作を書ける人とか、曲作りが上手だなって私が思っている方にお願いをして。それもむしろポップスじゃなくて、「芸術的な作品を書いてください」とオーダーをした作品だったんです。そんな人たちが書いてくれた芸術作品を一緒にやらせてもらって、私自身、デビューの頃からずっとやってきた“全体を見ながら作る”というやり方がやっとまとまってきていた頃で。なので、なんとか1枚のアルバムに落とし込むことはできたと思っていて。そこから先、またものすごくポップなものを作ろうかな?と思っていたけど、同時に自信がないなとも思っていました。

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