【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第112回「浜松城(静岡県)卓偉が行ったことある回数 4回」

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天下統一を果たした徳川家康公が29歳から45歳までの17年間居城していた名城、浜松城である。本当は濱松城というのが正しい。現在の場所にあった古城を改修し1570年に入城。築城を始めたのはもっと前になるだろう。家康公の頃の浜松城は石垣ではなく、土塁、空堀、土塀、そういった作りの城であったそうで、家康公が駿府城に移った後に堀尾氏が改修し、野面積みの石垣を始め、水堀を作り城の大きさを拡張。当然ながら幕末に城の大半は埋め立てられ、解体されてしまって現在の浜松城はずいぶんと縮小しているが、それでもその風格は今見学しても素晴らしいと思う。家康公が暮らした17年の間は毎年のように戦に明け暮れていた。時は戦国時代の真っ只中なだけにいつ攻められてしまうかもわからない。常に危機感と隣り合わせという緊張感の中、だがその17年間で学んだことが後の家康公を天下統一まで導くこととなる。家康公がこの城を出た後にどんどん出世されたこと、後に浜松城の城主になった者達がどんどん出世していった例があったことで、浜松城は「出世の城」と言われるようになる。夢を目指し頑張る男のサクセスストーリーとしてとても良い話だと思う。



現在の浜松城を見学すればわかると思うが、石垣の城の割りにしっかり四角で作られた曲輪が少ないのが窺える。流線形とも言える曲線、斜めに落ちていく作り、これは元が土塁だったという事実を伝えてくれている。時代が土塁の時代から石垣に変わっていく中で、土塁にそのまま石垣を組んで改修した城もあれば、ちゃんと土塁を整えて角を作り、そこに石垣を組んでいった城があり、浜松城はその前者の方である。江戸幕府が天下統一を果たした後に作られた城は完全なる石垣の城がほとんどなので、基本は四角い曲輪にしっかり角を考えて作られた石垣の城が増えた。岡山県の津山城などその典型的な作りと言えるだろう。だが家康公の若かった頃はそういう発想や技術がまだ発展しておらず、自然の地形を生かし城を構えるといったスタイルであった。後に江戸城を築城するがその時はしっかり角を強調した完璧な石垣の城として建築している。土塁は自然の地形を利用して作ることが出来たが、石垣を組むとなるとカーブや丸みがあると組みづらいということなのである。ジョルジェット・ジウジアーロのデザインで言うとフィアット パンダ。フォルクスワーゲン ゴルフ1、ゴルフ2と言った角がはっきりした箱型の方が間違いなく石を組みやすいのだ。打ち込みハギの石垣や、切り込みハギの石垣は土塁が整っていない限り石を綺麗に組むことは不可能だが、野面積みは石ならなんでも良いから積んじまえという石垣の組み方なので、浜松城の元の曲がりくねった土塁にも組みやすかったと言えるだろう。そこを注目しながら見学してもらえると城の深みが出てくるはずだ。



ひとつ城マニアとして残念なのは現在の模擬天守である。今から書くことは歴史マニアとして愛を持って心で話すことであるので決してディスってるわけではないことを先に伝えさせてほしい。このコラムでも何度も説明させてもらったが、模擬天守というのは歴史上一番やってはいけない建築で世界から笑われるレベルである。フランス料理のフルコースで、最後のデザートでコンビニのお菓子が出て来るようなものである。昭和33年に建てられた模擬天守は当然ながら浜松城に建てられていた天守ではなく、勝手に想像で建てられたものであり、しかも本当にふざけているのは天守の大きさが天守台に合っていない。天守台よりも模擬天守の方が小さいのだ。めちゃくちゃである。高度急成長の時代で町のシンボルが欲しかったという気持ちもわかるがこれはあんまりにも程がある。しかも当時デザインを考えた人が福井県の丸岡城の天守をイメージしただのマジでわけのわからん建築がまかり通ってしまった。残念にも程がある。もう一度日本の歴史的建造物の在り方、復元を本気で考えるべきだと思う。


天守台は西側に八幡台と言われる突出部がある。東側には天守に対する付櫓と呼ばれる張り出しの部分があり、こちらから天守に入れるように石段が付いている。本当に良く考えられた天守なのである。堀尾氏の頃の天守で、江戸時代より前には焼失したのか早くから天守台だけになっていたそうだ。そこのデータが全然ないのである。データがないのに建ててはいけないのだ。ただ唯一ある情報としては堀尾氏が出雲に転封になり、浜松城に似せて松江城の天守を建てたという話が本当ならあの感じの天守が聳えていたことはイマジン出来る。天守入り口が付櫓になっていることも松江城と同じだ。これは夢がある。


現在の天守に入っても八幡台を見学出来ないし、天守台の裏にも廻れないので城マニアはマジでストレスなのである。私は80年代に初めて来城した小学生の頃からこれをずっと感じている。むしろ模擬天守なんていらない。堀尾氏の最高の天守台を見せてほしい。そういう城マニアはめちゃくちゃ多いと私は思う。浜松城の話になると大概この話題で持ちきりだ。

そんな天守に悲しんでもしょうがないのだが、その他は本当に素晴らしい作りになっている。本丸には二つの出入口があり、規模は小さいながらも良く考えられている。当時は本丸下に三日月堀も存在した。本丸付近の石垣も基本二段造りになっていて、導線や犬走りとしての機能も窺える。流線形の石垣は数々の名車をデザインしたジョルジェット・ジウジアーロ的な甘美な曲線のようだ。アルファロメオ ジュリア スプリントGT。またはフィアット850スパイダー、やっぱりいすゞ117クーペ ハンドメイド。く~っ!たまらんではないか!石垣の曲線はもはやイタリアか!


二の丸、三の丸など城の外に行けば行くほどスペースや曲輪の大きさが広がり、当時の平面図を見るとこんなにでかかったのかとびっくりする。この場所に城を建てなきゃ武田氏には勝てない、そう思った若かりし頃の家康公の野望がビンビンに伝わって来る。まさにバッテリーはビンビンだぜ!である。29歳から45歳、男は一番脂の乗った時期、仕事を思い切りやりたい時期、当然ながら若さ故に失敗も大敗もする。結果論ではあるが大器晩成だった家康公はこの城にいた頃は出世に時間がかかり、関白秀吉に追い越されもして、もがく想いも相当あったであろう。関ヶ原の戦いで勝利し、家康公が天下統一を果たしたのは70歳目前の頃だったのだから。諦めてはいけない、行き当たりばったりじゃいけない、考え抜かなければならない、勝つためには、人を動かすためには自分がどう行動し、そう発言し生きていかなければならないかをここにいた17年間で何度も紐解いただろう。そういった信念みたいなものを浜松城に感じるのだ。何度来てもそういう気を感じてしまう。物凄く良い気が流れる城、浜松城なのである。



浜松を思うとディープに残っている思い出がある。17~18年くらい前に浜松のアクトシティで音楽番組の収録があった。なんと楽屋がパネルで仕切られただけでロックスター清春さんと一緒だった。清春さんは僕に「俺、ずっと寝てるけどうるさくしても良いから気にしないでやってね」と言われた。マネージャーさんに聞くと相当忙しいスケジュールで寝る時間もなく収録の後も地方へ移動するとのことだった。収録が終わり1枚だけ写真撮っていただけますか?とお願いしたら「今日ずっと寝ててごめんね、全然話せなかったね」などと気を使ってくれる清春さん。出演者が一斉にタクシーで浜松駅に移動、改札を超えてまた挨拶をし、私は東京方面へ、清春さんは博多方面へと別れた。清春さんは最後に私に「なんか髪の長さと色とサングラスがお互いかぶってない?」と笑いかけてくれた。私は当時金髪であった。改札の外ではファンの方が「きよはる~!」と叫んでいる。良く見ると駅構内にもファンの方がいて清春さんの名前を呼んでいる。さすがロックスター。普段着も、立ち振る舞いも、すべてがとてつもなく格好良かった。

そのままホームで新幹線を待っていると、またどこかで「清春さ~ん!」という声が聞こえた。でも清春さんは見えない。それでも割と自分の近くで聞こえる。ん?良く見ると反対側のホームで私に向かって手を振りながら「清春さ~ん!」と叫ぶ二人組の女性がいた。違うし!清春さんじゃねえし!新幹線に乗り込むと彼女たちによっぽど近い窓際の席だった。その二人がずっと口を「清春さ~ん!」と動かしずっと私に手を振っている。完全に私を清春さんと勘違いしている。私は思った。清春さんはどんなファンの方にも手を振って返されていた。ここでもし手を振らなかったら、このファンの方は清春さんに無視されたと思うかもしれない。そんな理由で、私のせいで清春さんを嫌いになられても困る。そんな余計なことまで考えてしまった。だが小っ恥ずかしくてそんなこと出来やしない。言ってしまえば私は中島卓偉なのであって清春さんではない。わかっとるわ。清春さんのフリなど出来ないし何よりそんなことしたら清春さんに失礼である。しかし清春さんに間違われるなんてちょっと嬉しいやんけ…いやいや!おこがましいわ!新幹線が動き始めた。どうしよう!?どうしよう!?と焦る。咄嗟に私が取った行動は窓際の台に両手を付き、深く一例をした。マネージャーに「いや、むしろ清春さんはそんなジェスチャーでファンにバイバイなんて絶対しないでしょ!」と突っ込まれた。

あの日の二人組の清春さんのファンの方に謝りたい。そして世の中にはメガネとコンタクトがあることをお伝えしたい。

あぁ 浜松城 また訪れたい…。


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