【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第95回「黒羽城(栃木県)卓偉が行ったことある回数 1回」
この城もその凄さがほとんど伝わっていない城である。城は本丸だけを見ただけでは伝わらない。黒羽城は縦に1.5キロに伸びた丘に築かれた城であり、江戸時代に描かれた美しい絵図もとにかく縦に伸びている。2020年の2月の頭にtvkの私の城番組のロケで黒羽城を探検しまくった。城は本丸だけで城を語るべからず。マニアのお約束だ。すべての城に言えることだがこの黒羽城は特にそれが言える。もちろん本丸も凄いのだが、黒羽城はそれ以外がもっと凄いのだ。どう凄いのか説明していこう。
築城は1576年、大関氏。関ヶ原の戦いで徳川の東軍に付いたことで1600年以降に更なる築城を施したそうな。西側に流れる那珂川を外堀に、東側にも松葉川が流れ、川に挟まれた縦にゆったりと伸びる丘に築かれた城である。いくつもの曲輪を配置し、その都度深い堀で仕切る作りは典型的な連郭式の城と言えるだろう。現在は城のど真ん中にアスファルトの道が作られ、城内の中心部の虎口が壊されてしまっているが、その中心部には水堀も存在した。現在も少しだけその名残と言える水堀が残っている。山城とまでいかない高さの城ではあるが水堀を作るあたりにセンスを感じずにはいられない。庭園にも見える良い雰囲気がある。
見学するとなると二の丸などの駐車場にリンカーンの観音開きのファントム、もしくはストレッチのリムジンを停め、本丸の土塁の高さ、空堀の深さなどに感動しながらあっという間に見終わってしまうかもしれない。確かに本丸の土塁と空堀の作りは凄い。どこを見てもV字である。この国に今必要なのはまさにV字回復である。本丸御殿が建てられていたことが掲示板にも説明書きされていて、その大きさを考えただけでも相当な規模の御殿だったことが窺える。かくれんぼしたら鬼は1日誰も捕まえられないレベルだ。本丸の内側も土塁が高く、外の景色は全く見えない。そもそも寒さを凌ぐために内側の土塁を高くしたとも言えるだろう。那珂川側の本丸土塁の下には幅の大きめな犬走りも作られ、ある意味本丸の下のこのスペースも曲輪扱いだったのかもしれない。もちろん家来の導線でもあったはずだ。天守こそないが本丸の角はそれぞれ櫓的な建物があったとイマジン出来るスペースがあり、三箇所の門跡が確認出来る。土橋の導線もあれば、木橋が架けられていたであろう場所もある。現在も三の丸側から本丸に入れる門跡に木橋が架けられている。これを渡るとわかるが高さが半端ない。土塁を高く盛ったというよりこの場所にこれほど深く空掘を掘ったということである。凄まじい。
場所によって水堀のところと空堀のところがあるが、もしかすると城内の本丸周辺の堀は半分は水堀だったのかもしれない。排水も上手く出来ていて、土塁を高く保ち水が外へ流れ出ないように工夫もされている。今でも城の両サイドの竹藪の中を行くとひっそりと水堀が残っていたりもする。まるでひっそりと活動する卓偉のように。
現在は城内にもいくつかの民家が建っているので細かい見学は出来ないが、良く地形を考え、良く城の地図を見て行動するといくらでも最高な空堀や土塁に遭遇出来るのだ。これをロケでとことん追求&見学&探検をした。これをTKTと呼びたい。まず本丸の後ろにある二の丸。現在はバブル期に建てられたであろう廃墟になった大きな旅館がある。この那珂川側の竹藪をちょっと入るだけで空堀がどこまでも長く城と同じく縦に伸びているではないか。那珂川側は崖でもあるのでそこまでの防御はされてないとイマジンしたら大間違いなのだ。このこだわり。しかもこの二の丸だけではなく川のラインに沿ってどの曲輪も空堀で縁取られている。凄過ぎる。二の丸の裏側にも、いわゆる搦手にもいくつもの曲輪が残っており、整備されているところとされていないところがある。北坂門跡と書かれた石碑があるがこの付近も見事な虎口の連続、そして土橋、空堀、その空堀を歩いていくと民家の敷地になるのでそこからは見学が不可能だったりする。とことん連郭式の城なので曲輪から曲輪に移る場合に必ず土橋が残っていたり、堀切があったりする。八幡館のお宮がある場所も曲輪の跡であり、やはり那珂川側の竹藪を少し入っていくだけで空堀が残っているのだ。これにとにかく痛く感動。ずっと見学しながらずっと鼻息がずっと荒かったずっと。
現在の城の地図にはこういった曲輪の説明書きがされてないのだ。曲輪の名前がわからないからというのもあるかもしれない。一体いくつの曲輪が続いているのだ?と不思議に思うくらい縦に、とにかく縦に曲輪が連なっている。当然ながら搦手側だけじゃないはずだと意気込み、大手側の三の丸周辺を引き続きTKT。現在は松尾芭蕉記念館が建ち、本丸からすぐ出た馬出しの下の門跡に石垣を作り、建物の下を潜れるようになっている。これは後付けだとしても、当時はこういった建物、こういった建て方にしていたことはイマジン出来る。堀切が那珂川に切れて落ちており、ハイキングコースになっている場所もある。そこも単にハイキングコースとして歩くのではなく、良く気を付けて見て見るとこれでもかと思う程のイカした空堀、土塁、虎口が残っている。ここも那珂川に沿って縦にずっとずっと長い堀が残っているのだ。いやこれはすげえよ、マジで。今頃卓偉の歌唱力と才能に気付く人が口にする台詞と同じである。
三の丸は大手側ということもあり、搦手よりも防御が硬いことがわかる。作りがかなり凝っていて、喰い違い虎口になった土塁も発見。川に降りられる導線とも言える裏門?らしき跡地も発見。水を運ぶことを考えたら近くに台所曲輪的なものがあったのかもしれない。高さのある土塁の上を歩くとその構造の凄さがひと目でわかる。実に鳥肌ものだった。だが残念ながらこの部分が全部竹藪なので正直素人には見学が厳しいだろう。決して立ち入り禁止にはなっていない場所だが城がわかる人といかないと、そして説明がないと厳しいかもしれない。卓偉に言ってくれれば1分8億5千万のところを不景気を考慮して、見学3時間説明TKTセットを、片手をパーにして、5億でお届けしたい。
三の丸の那珂川側の竹藪、これはもう城マニアからするとデザートの連続なのだ。縦に長いだけなのでアップダウンがないのも良い。当然ながら城の東側にもこういった防御が残っているらしいが、東側は民家が多くそれは不可能である。いわゆる家来達の屋敷跡であり、末裔の方達の住まいの場合が多い。現在は畑になっている曲輪もある。大手も現在の城のど真ん中をくり抜かれた道の麓が大手ではなく、城の中心部にある堀切、水堀の横から上るのが本当の大手という考えもあるらしい。その道は発見出来なかった。確かに縦に1.5キロもある城を端から下から上って来るのは大変だ。真ん中から登れる導線があって当然とも言える。
とにかく、せめて那珂川側の竹藪を一度整備していただけたらこの城の評価は目まぐるしく変わるはずだ。栃木で3本指に入る城となるだろう。残念ながらこのこだわり、このデザイン、センスが竹藪によって隠されてしまっていることは否めない。城のあるあるだが本丸だけではその城の凄さは伝わらないのだ。素晴らしく良い城だと評価したい。家臣をちゃんと城内に住まわせる土地があり、それが所狭しと建てられてはいるのではなく、余裕を持ってスペースが確保されている。安土城の本丸も発掘調査の結果、スペースが狭い上にいくつもの櫓や多聞や御殿を建て過ぎて日当たりが悪かったことがわかっている。大関氏が江戸時代から外様大名のまま転封も命じられることもなく明治4年までこの城を治められたことは家来との信頼、城の住みやすさ、苺の美味さ、レモン牛乳の美味さ、餃子の消費量が絶対にあったと思う。本丸の風当たりや寒さを凌ぐために土塁を高くしたこともそうだろう。防御も必要だがまずは住みやすさ、そして連郭式の作りよろしく、みんなが大体同じ高さの場所で気兼ねなく暮らしていたこともしかりだ。本丸の御殿の大きさは日本でベスト10に入るくらいなのではないだろうか。大関氏、先祖代々、家来共々、みんな仲が良かった、なんかそんな雰囲気が伝わって来る心温まる城なのだ。
ロケの帰りに道の駅に寄り、とちおとめが入ったアイスを食ってエンディングの映像を撮ることになった。でも時期は2月、寒いにも程がある。売ってはいても誰もアイスなど食っている人は見かけない。そんな中アイスを注文すると店員のマダムが、「それでも食べます?」と聞いてきた。この寒さ、それでも食べますか?ということだった。とっさに「え?はい、それでも食べます」と返してしまい笑い合った。その後に「それでも」ってなんだよとジワジワ来た。
帰りに宇都宮駅でスタッフと餃子を食って帰ることになり、男三人、餃子を頼みまくった。ちょっと多いかな?頼み過ぎたかな?と思いきやバイトの店員さんは言った「それでも食べます?」
「これだと結構な量がありますよ、大丈夫ですか?食べ切れますか?それでも頼みますか?」という意味が込められていることがわかる。私は言った「それでも食べます」と。
これも引き続きジワジワ来た。それでもってなんだよと。店を出る時に栃木の人は「それでも」って良く使うんですか?と聞いたら「誰も使わないたまたまです」と言われた。でも彼は去年日本に来たと言っていた台湾人だった。栃木出身の知り合いに聞くと「誰も使わねえよ、たまたまだよ」と言われた。それで納得していたはずだった。だがその「それでも」が私にはジワジワ残っていたのだった。
最後に、このコラムを書くのに締め切りに追われ、睡眠を削り、自分の新曲のデモ作業もやり、忙しさにちょっと頭がこんがらがっていた。そんな中、愛車のMINIのクーラント液が漏れてることに気付き、それがどこから漏れているか車の下に入ってライトを当てながらチェックしていた。古い車なので本当に良く壊れるのだ。
それを見た息子が言った。「父ちゃん、またMINI壊れたの?」
私は車の下から言った「そうなんだよ」
息子は言った「それでも乗るの?」
私は急いで車の下から出て子供に聞いた。
「あれ?お前栃木出身だっけ?」
息子「は?」
卓偉、疲れている。
あぁ 黒羽城 また訪れたい…。
◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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