【インタビュー #4】徳永暁人、doa15周年と不屈の音楽ライフ「僕は最後尾からスタートした」
メジャーデビュー15周年を迎えるdoaが、夏、秋、冬の3期に分けて三部作となるベストアルバムをリリースする。当初、オフィシャルサイトにて『doa 15th Anniversary BEST SONGS リクエスト投票』を実施。予想をはるかに上回る投票数と音楽的に多岐にわたる上位楽曲の結果を受けて決定したものだ。リクエスト上位曲から『ROCK』『MIDDLE』『BALLAD』をメンバー自身が選曲し、『doa Best Selection』は全3作、収録曲はそれぞれ19曲という大ボリュームでリリースとなる。
◆doa 画像
BARKSでは、doaの15年間を紐解くヒストリーを前編と後編の二部構成でお届けすることをはじめ、メンバー個々の背景に迫る単独インタビューを実施中だ。全5本のインタビューから、“3ボーカル”という道なき道を歩んできた彼らの軌跡を辿り、彼らの向かう先の光をみつめる特集をお届けしたい。その第四弾はリーダーの徳永暁人のパーソナルインタビュー。doaの発起人にして、B'zとの共同編曲やサポートベース参加、ZARDや倉木麻衣への楽曲提供など、その経歴はあまりにも輝かしい。
一方で、「経歴には音大卒業と書いてあるけど、最初から完全に落ちこぼれですよ」と自身が語った学生時代や、陸上に没頭していた少年期は、現在の姿と一致するものではないかもしれない。音楽に魅了され、音楽とともに歩みを進める徳永暁人の人間性が露わになったロングインタビューをお届けしたい。
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■自分の部屋に貼ってあったポスターは
■カール・ルイスでしたから(笑)
──幼少期はどんな家庭環境で、どんなふうに育ちましたか?
徳永:ずっと反抗期みたいな子供でした(笑)。“大人が大嫌いだった”という歌詞(doa「大人ラプソディー」※ベストアルバム第2弾『doa Best Selection “MIDDLE COAST”』収録)を書いたことがありますけど、それは事実なんです。小学生の頃からケンカの相手は同級生じゃなくて担任の先生。そういうヒネくれた子、いたでしょ? 「揚げ足を取るんじゃありません」とよく大人から言われていたし、そう言われたとしても、「揚げ足取っても軸足を取らなきゃ転ばないよ」と言い返したりするイヤなガキで(笑)。
──それはヒネくれていたというか、頭が良かったんじゃないですか?
徳永:子供の頃から大人と対等に話したいという欲があったんですよ。だから、クラスの中でも変わった子だったと思う。“また徳永が変なことやってるな”みたいな。小学校の時、「生徒会長に立候補しろ」って押し上げられてしまったことがあって。生徒会長に立候補すると、全校生徒の前で演説をしないといけないじゃないですか。でも僕は、生徒会長になりたいわけじゃないから、頭の上にピラミッドを乗せて“ピラミッドパワー”の話だけをしたんです(笑)。
──ええっ!?
徳永:話したいことを演説していいと言われたからね。僕は幼少期から現在に至るまでUFOとかSFの話が大好きで、その時は「ピラミッドの中に肉を置けば、ピラミッドパワーでその肉はいつまで経っても腐らない」という話をしました(笑)。
▲doa |
徳永:全然です。親は普通のサラリーマンで、僕はひとりっ子。音楽や楽器には無縁の家庭で育ったんです。小学校の頃は空手少年でしたし。中学では陸上部に入部したんです。そんなふうに、音楽には縁もゆかりもない子供でした。
──では、音楽とか楽器に興味を持った原体験的な出来事は?
徳永:小学校の頃、親がよく買い物に行っていたディスカウントショップの入り口に、安いキーボードがディスプレイされていたんですよ。親が買い物している間中、そのキーボードをピコピコ弾くのが好きで。当時はYMOが出てきたり、シンセサイザーが流行っていたんですけど、僕が住んでいた田舎では楽器を間近で見ることが出来るのは、そのディスカウントショップだけ(笑)。自動演奏機能とかが楽しくて遊んでいたんですけど、だんだん欲しくなって、小学校5年生の頃に貯めていたお小遣いで買ったんです。それを指1本でピコピコ弾いていたというのが、僕の音楽の始まり。
──それをきっかけに音楽に興味を持つようになったんですね?
徳永:いや、“音楽っていいな”と最初に思ったのは、オフコースとか山下達郎さんの曲を聴いた小学校6年生くらい。テレビに出ていない人の音楽がカッコいいと思ったんです。彼らのカセットテープを友達に借りて聴くようになったんですけど、キーボードを弾くというのはゲームの延長線上みたいな感覚だったから、“音楽”と“キーボードを弾く”ということは別だったんです。当時は、自分が音楽をやろうなんていう気持ちはゼロに近かったですね。
▲ベストアルバム第3弾『doa Best Selection “BALLAD COAST”』 |
徳永:中学校時代の陸上部の仲間に、兄貴がエレキギターを持っているヤツがいたり、中学校の先輩に、LUNA SEAのSUGIZOさん、INORANさん、Jさんがいたり。もちろんLUNA SEAを結成する前ですけど、バンドをやっているカッコいい先輩がいると、憧れてマネするじゃないですか。陸上部で楽器を弾いているやつに、「僕もキーボードを持っているから、ちょっと音楽やれるぜ」みたいなことを言っていたんです。そういう中で、雑誌で“カセットデッキが2台あれば、キーボードを多重録音できる”みたいなことや“打ち込み”も知って。中学1年生くらいからシーケンサーを買って、キーボードを多重録音することに熱中しましたね。
──キーボーディストって、幼少期にピアノを習っていた人が多いような印象がありますが、徳永さんはそうではなかったんですね。
徳永:違いますね、音楽的な素養は全くなかったです。それに、音楽に目覚めてからもギターを始めようという気持ちにもならなかったんですよ。中学1年生で普通にヴァン・ヘイレンのライトハンド(※タッピング)を弾いちゃうような上手い友達がいたし、フォークギターを3フィンガーでキレイに弾くようなやつもいた。“こんなヤツらに敵うわけない”と思っていたから、ギターもバンドもやらなかったし、ひとりで多重録音していました。でも、僕のキーボードではベースの音が出せなかったんですよ、鍵盤数が少なかったから(笑)。なので、多重録音用に9,800円のベースを買ったけど、入手した直後はみんなに内緒にして、家でこっそり弾き始めていたという(笑)。
──好きなベーシストと出会ったわけではなく、必要に駆られて始めたのがベースだったんですね。
徳永:そう。チョッパー(※スラップ)奏法がポピュラーになった当時だったから、それが出来たらカッコいいみたいなムードもあって、ベースを手にチョッパーのマネを始めたり。中学2年生の頃に友達が「バンドのベースが抜けてしまった」と言うので、ベースを持っていることを告白して、BOOWYとか尾崎豊、ボン・ジョヴィのコピーバンドに加入したんです。ただ、そこからバンドにどっぷりはまる感じでもなかったんですよね。自分の部屋に貼ってあったポスターは、カール・ルイスでしたから(笑)。
──ははは。完全に陸上少年ですね。
徳永:カール・ルイスと、エドウィン・モーゼスというハードルの選手のポスター(笑)。当時僕はハードルと高跳びの選手で、陸上選手に本気でなりたいと思っていたんです。だから、家ではカール・ルイスのビデオを何百回も見て、“100mは40数歩なのか”って研究したり、200m走のトラックから直線に入る時の腕振りの角度をチェックしたり。ビデオで陸上の研究はしたけど音楽の研究はしなかったので、完全に音楽は趣味程度でしたね。
◆インタビュー【2】へ
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