【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第85回「桐原城(長野県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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長野県は城の宝庫である。良い城跡が実に多い。山国であるが為に良い城は大概山城で登るのがとても大変だ。もちろん平城で見学しやすい松本城や諏訪高島城、松代城などもある。だがやはり長野県の魅力は大自然の中に建てられた山城だと宣言したい。

今回紹介するのは桐原城。小笠原氏の支城である。小笠原氏はこの辺一帯にたくさんの城を構えていた。林大城を本拠地に、植原城、山家城、林小城、そしてこの桐原城となる。湘南爆走族で言うと、総長江口洋介が林大城、リーダー補佐の原沢良美が林小城、植原城が特攻隊長の丸川角児、山家城が防塵マスクの桜井真二、桐原城は親衛隊長の石川晃と言ったところか。って前にも言ったな。桐原城はこの5つの城の中でも一番戦にかける想いが強く、守りも頑丈だと言える。桐原城は竪堀の名城とも言えるかもしれない。この城も規模は小さいが中世の山城の最高傑作と言って良い。何より牛蒡積みの石垣が素晴らしい。築城から400年経つ今でもこれほどの保存状態。素晴らしいと言う言葉しか出て来ない。



築城は1460年頃、小笠原氏の家来であった桐原氏と言われている。この辺一帯は武田氏、上杉氏が取り合っていた地域だけに、攻められてはならないという信念が常にないと簡単に滅ぼされてしまう。よってここまでたくさんの城を構え、どこから攻められても良いように四方八方に目を光らせ守りを頑丈に作ったとされる。5つの砦が組み合わさった大城郭と言えるだろう。林大城や林小城も見て廻ったが、どの城も登るだけでも大変な急斜で、住みやすさなどは当然後回し、まさに戦国時代ど真ん中の城と言える。一番石垣が高いのは山家城だ。ただ完成度、アイディア、威嚇、この辺を考えると桐原城が一番だと私は評価したい。むしろ林大城よりもこの城の方が本城と言っても良いんじゃないか?というレベルだ。



この桐原城、松本駅から車で割とすぐ行ける距離にある。小笠原城址という括りの5つの城がすぐ近くにあるわけなので、体力さえあれば1日で廻れる。いや、嘘ついた。普段から毎日筋トレし、1日置きに7キロ走って、デビュー当時から体型が全く変わっていない私でも3つの城が限界であった。そうなのだ、私はデビューした20年前の20歳から現在の40歳まで全く体重とフォルムが変わっていないのである。未だに1stアルバムのツアーで履いていたブラックスリムが履ける(2019年3月の20周年ツアーでもそれを履いた)。デビュー当時仕立てたスーツも未だに余裕で着れる。そう!デビュー当時ファンによく言われたものである。

「いつまでも変わらないでいてください」

その言葉を胸に私はずっと運動し体型維持を続けてきた。酒もタバコもドラッグもやらず、どんなに疲れていても走り、筋トレをし、柔軟も欠かさない。太ってしまったらロックじゃない、格好良くなかったらロックじゃない、そう信じて頑張ってきた。ファンが自分の好きなアーティストを人に伝える場合にそのアーティストが太っていたらどうだろう?

「まあ好きなのはわかるけどさ、この人デブじゃね?」

そう言って私のファンが笑われるのは絶対に嫌だったのだ。そう!今なら胸を張って言ってもらえるだろう、「中島卓偉はね、デビューした時から20年体型が変わってないんだよ」と。

「へ~。太らない体質って羨ましいね」

そうじゃねえから!ずっと鍛えてんだよ!飯食ってねえんだよ!炭水化物とらねえんだよ!食ったら走るんだっつーの!余談だがいつまでも変わらないでいてくださいと言っていたファンは日々フォルムがポヨンポヨンに大きくなっている。そう!変わったのは私ではなくYOUだ!

話が脱線し過ぎた。松本に1泊2日であれば5つの城を完全制覇、帰りに国宝松本城見学コースで行けると思う。山城をなめてかかったらいかん。その中でもこの桐原城が私のお勧めである。中世の山城の10本指に入る城だ。

城マニアの評価は相当高い城なのだが、中島卓偉と同じく凄くてもネームバリューが低い城なので当然観光地ではなく、麓に駐車場もない。山の麓ギリギリまで葡萄栽培のビニールハウスで埋まっている。まずこういうところに絶対に迷惑をかけてはならない。

「桐原城の大手口は狭い。石碑も立ってはいるが一瞬、ん?この入り口であってるか?と思うくらいの細い道幅である。その前に畑を荒らす動物達を入れない為の大きな柵がある、自分で開け閉め出来るので閉まっていても入れるのでご安心を。ここを抜けて行くととんでもないいろんな仕掛けに遭遇する。大手の防御が割と弱いのが長野県の城の特徴と言えるかもしれない。だがそこは、簡単に城内に誘き寄せて、そこから完全にやり込められるという仕組みとも言えるかもしれない。



まずはとてつもない長さと急斜面の竪堀が目に付く。木が生い茂っているので全部を把握するのは難しいが、至る所に物凄い数の竪堀が伸びている。これを探しながら見学することをお勧めする。場内にはいくつかの掲示板があり、説明もされているので初心者にもありがたい。更に登って行くとここがある意味大手なのかと思えるような二重堀切が来る。きっと何かしらの門があったことがイマジン出来る。この二重堀切も両サイドは真下まで伸びており両サイドが断崖絶壁ということである。しかしこういうパターンの城多いさね。登る道が曲がりくねることなく真っ直ぐに伸びていることで体力がいる。途中段になった曲輪がいくつもあるが、この真っ直ぐな道を登って行くのに常に両サイドの曲輪から攻められるというとてもじゃないが恐ろしい道だ。アルバムでどの曲を頭出ししても同じ歪み、同じ質感、同じテンポ、同じようなリフ、同じ叫び、一昔前のジャーマンメタルのようだ。そしてサイドに伸びた竪堀に突き落とされるという仕組み。大手は防御が甘く作られていることに油断するとこういう蟻地獄的な罠が待ち構えているということである。

もう一つの二重堀切&門跡を超えたあたりからがいよいよ城のメイン部分となる。もしかすると本来はただひたすら真っ直ぐに伸びた道を登り、本丸の真下まで行くという道順が正しいのかもしれないが、見学するにあたり一度左にルートがそれるようになっている。そこから竪堀をいくつか渡るとさっきとはまた規模の違う段の曲輪がいくつも存在する。上を見上げると石垣の曲輪が見える。突如現れるこの石垣に痛く感動。そしてその石垣がいくつもの段になり、端から端までびっしりと石垣で埋まっているではないか。高さはそこまで稼げてはないが、この牛蒡積みの石垣に圧倒される。面白いのはこっちには登り口がないのにも関わらずここまでの頑丈な防御にしてあるということだ。もしかすると、こっちから攻められることを一番警戒した上で城内の道を今ある方に作り直したのかもしれない。だが途中からこの石垣、石段も虎口があったり、門跡がある。いくらか家来も行き来していたことがわかる。そのまま石垣を登って行くと本丸の下の曲輪に差し掛かる。本丸は不等辺の形をしており、安土城の天守台と同じような雰囲気を持つ。ここはかなり石垣が崩れているが、その崩れ方になんだか涙が出てしまった。こんな山奥に、これほどまでの石を運び、そして組み、戦いに備える。明日へも知らぬ戦国の人生、いつ死が来てもおかしくない人間の覚悟が、ここにまだこれほどまでに残っていることに痛く感動したのであった。凄いなんて言葉では足りない。本丸入り口もきっと虎口になっていたはずだろうが崩れ具合が半端なく、本丸に入るにはちょっと危険でもあった。どの場所も今にも崩れ落ちそうな石垣なので注意して登っていただきたい。考えてみたら石垣が組まれていない曲輪や土塁にもちょっとだけ石が落ちていたりしたが、上から崩れ落ちてきた石が転げ落ちてきたことがイマジン出来る。



ここの石垣だけではなく、ここからもっと凄いのは本丸裏の堀切、土塁、竪堀、またしてもある二重堀切である。本丸裏にも道があるので行ってみていただきたいのだが、もしかするとここが一番考えれて作られた場所なのではないかと推測。まず何重にもなって下へ落ちて行く竪堀、これ、これだけの数必要だったのか?と思うくらいの防御である。竪堀の間と間に当然ながら区切る土塁が一緒に伸びて下まで落ちているのだが、これこそ横に移動させない登り石垣ならぬ登り土塁だと言えるだろう。掘った分この土塁に積み上げて土塁が高くなるわけなので奥が見えない仕組みである。この竪堀と登り土塁が山のてっぺんから麓まで繋がって落ちているってことがまず凄まじい。そしておそらく途中までしか工事が進まなかったとされる二重堀切の跡。これも完全な搦手門であり、やはりここにもしっかりとした石垣が二重に組まれている。その先も城の外に向けていくつかの曲輪が見えるが石垣が途中までしか組まれていないことがわかる。この搦手門の先から本丸の下の犬走りのような曲輪のスペースまで木橋が架けられていたのではないかとイマジン。この辺一帯は小笠原氏の城で導線が繋がっているわけなので、もしかすると家来達の行き来はこの搦手を使っていたのではないかとこれまたイマジン。途中になったままの石垣をはじめ、まだまだ発展途上にあったことがわかる。私の歴代のマネージャーは仕事を途中にして辞めていくパターンがほとんどである。



帰りは本丸裏にある犬走りの曲輪から大手道に向けて城を右に見上げながら退散したのだが、左は竪堀と断崖絶壁、右はどこを見ても崩れ落ちた石垣、幻想的にもほどあった。最初に左に曲がった曲輪まで来て、そのまま降りずにもう一度城を一周見学をしてしまったことは言うまでもない。まさにおかわり。城の規模は小さいのですぐ廻れる。とにかく凄い。大きさからすると砦のような規模と言えるかもしれないが、本城と言っていいほどのクオリティ。この名城にやっと来城出来たことを誇りに思う。この城に関しては色々と整備してくれなくても良いんじゃないかと言う気持ちにもなる。自分のイマジンで見学出来る城として完璧なんではないだろうか。攻められない為に、威嚇の為に、徹底したアイディアが施されている。少しくらいわかりづらい方が戦国時代の戦い方をイマジン出来るのではないかと思う。当時はどれほどの木が生い茂っていたのかも興味深い。当然竪堀には木が生えてなかったはずなので遠くから見たら山の斜面に所々隙間の空いた面白い形をしていたのかもしれない。今でこそ外観は普通の山である。それが一歩踏み入れるとこんな城が残っているのかと痛く感動。きっと次に来た時はまた石垣が崩れてしまっているのだろうな。そういうのも切ないが、この城に関してはそうあっても良いのかなとも思う。



これほどまでの城作りの才能を持った小笠原氏。武田の家来になったが裏切りを繰り返し戦国時代を転々とし上手く渡り歩いてきたという。結局は滅びず生き延びてもいて、そう言った部分でも相当頭の切れる小笠原氏だったと言える。それを把握していた徳川家康は小笠原氏の生き残りにも十分警戒、裏切った小笠原の血を引いた家来を島流しにする。伊豆諸島よりももっと先の太平洋に浮かぶ島に島流しにしたことにより、そこが小笠原諸島と呼ばれるようになったと言うのは都市伝説なのか!?どうなのか!?でも何もないところに急に小笠原なんて呼び名が付くもんだろうか?歴史はこうだから面白い。ちなみに今の小笠原諸島は全部東京都である。

桐原城を下山し、大手の入り口まで来て、仕切りの柵を出ると刑務所から出てきたような気になる。シャバだぜ、そういう感覚だ。それくらい現実と戦国時代のギャップを1日で体験出来る桐原城だ。例えが乏しい。今回もtvkの私の城番組コーナーでのロケだったわけなのだが、お約束のエンディングシーンを撮るために帰りにおやきが売っている和菓子屋へ寄る。たくさんの種類を男3人で買い、その場でお茶をご馳走になりながら頂いた。一人2個ずつな割合で色々と頂いた。メインの野沢菜、ひじき、こしあん、つぶあん、切り干し大根、あずき、などなど。私はひじきとつぶあんを頂いたわけなのだが、店を出る時に店のおばさまに、

「ひじきとつぶあん美味しかったです」と伝えるとおばさまは、

「え?あなたが食べたのは切り干しとこしあんでしょ?」と言う。

「いや、僕はひじきとつぶあんを頂きまして」

そこで、我々で食べたおやきの種類をそれぞれおばさまに伝えたわけなのだが、おばさまは私に向かい、なんだかムキになり、

「あなたが食べたのはね、絶対にね、切干大根とこしあんだから」と言う。

「いや~…、ちゃんとひじきとつぶあんでしたけど…」

「いやいや、切り干しとこしあん!」

世の中には人に決めつけられて嫌なことと、この際どうでも良いこともある。私は思った。そして笑顔で暖簾を潜りながら、また来ます、美味しかったです。お茶もご馳走様でしたと言いながら心でドスの効いた声で思った。

「勝手に決めんなや。どっちでも良いだろ。」

あぁ 桐原城 また訪れたい…。

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