【インタビュー】ZIGGY、『ROCK SHOW』完成「スポットライトを浴びる覚悟を持てるか否か」

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■ティーンエイジミュージックを
■作り続けることがロックンロール

──ロックンロールはファン大きくしていくものであり、ファンと共有できるもの。『ROCK SHOW』はまさにそれを象徴していますよね。これは単なる音楽ではなく芸術なんだ、と大上段に構えたものではなく、むしろロックショウというのは“見世物”じゃないですか。寄ってらっしゃい見てらっしゃい、みたいな。

森重:まさにそうだと思うんです。理屈抜きで楽しむべきものというかね。それこそこのジャケット写真なりアーティスト写真なりを見たら、純粋芸術の匂いなんかまるで感じられないはずだし、むしろそこにはミーとハーしかないじゃないですか(笑)。それこそかつての『ロックショウ』という雑誌がそうだったようにね。問答無用にカッコいい写真ばかりが載っていたもの。ティーンエイジャーが“うわーっ!”となるツボを心得きっていたというか。俺はそういう意味ではかなり女子目線だから(笑)、そういうところにかなり反応してきたよ。

──今現在の年齢で、これほどのキャリアやステイタスのある人が『ROCK SHOW』と銘打たれた作品を堂々と出せるというのもすごく価値のあることだと思うんです。そこでの潔さというか。

森重:そこについてはね、思うところもあります。今はロックショウという言葉が使われることもあまりないし、ロック自体も、そんなにみんなが振りかざすものじゃなくなってきてる。逆にある種、生活に根付いたのかもしれないね。若い子がみんな普通に、さほど違和感もなく、当たり前のものとして享受できてる。俺たちが子供の頃には“ロックファンであることを名乗りたいんであればそれなりのことをしろ”という部分が少なからずあった。それはいわば入門するものであって“そんなダサいカッコしてロックもへったくれもねえだろ?”というのが道としてあった(笑)。そういう意味で言えばこの『ROCK SHOW』というタイトルにはある意味、レトロ感がありますよね。ただ、なんていうか、エンターテインメントとして、自分が適性を持ったものを演じようと覚悟することは、とても素晴らしいことだと俺は思うわけです。ロックスターとして、ステージでスポットライトを浴びる覚悟を持てるか否か、それは結構大きいことだと思うし、そういう時代を経てきたからこそ持てているものだとも思う。それこそ昔の『ロックショウ』の誌面を見れば、ジョー・ペリーの奥さんがグラビアになっていてロック少女にとってのお洒落の手本になっていたり、“それはどうなの?”と思うような記事もあったよ(笑)。いい意味での子供騙し感もあるにはあった。だけど、幼いながらにそれに気付きつつもキャーキャーできる何かがあったというか、そういう説得力がロックにはあったんだと思う。ZIGGYはそういう時代を知ってる人間がやってきたバンドだから、それをリレーのバトンのように伝えていく、ある種、責務のようなものも持ってるんじゃないかとも思う。

──それを人生として選んだ以上、橋渡しをしていくのが当然じゃないか、と?

森重:そう。もちろん自分の年齢を考えれた時、55歳の人間がやっていることに今のティーンエイジャーが興味を持つかといえば、その可能性は低いのかもしれない。これは遭遇できるかどうかのご縁の確率の問題でもあるからね。実際、あくまでロックンロールはティーンエイジミュージックだと思うし、だからロックをやってる人間がいつまで経っても大人になれないのも俺はわかる気がする。そこから出ようとしないわけだし、自分にとってはそのティーンエイジミュージックを作り続けることがロックンロールなんだよね。もちろん成熟したロックンロールというのも確かに存在していて、熟練の方たちが奏でるものがあるのも知っている。だけどもZIGGYの役割はそれじゃないと思う。熟練とか、ヴィンテージ感とか、そういうものじゃないと思うんだ。そこで自分が掲げていくべき看板としては、常にロックショウをやっていくバンドとしてのZIGGYというものなんじゃないか、というのがあって。

──ええ。そして今作の内容自体、その看板に偽りのないものだと思います。音楽的にはとても1980年代のL.A.メタル的な色の強い作品ですけど、ある意味、ロックショウを最後までやっていたのがあのカテゴリーの人たちだったのかもしれません。

森重:ホントにそうだね。のちにグランジ/オルタナティヴに駆逐されてしまうわけだけども、考えてみれば往年のハードロックというのもパンクに一蹴されたわけじゃない? 音楽シーンにおける数の問題ではあるんだけど、L.A.メタルというのは、当時の音楽シーンにおいてもっとも思想性の薄いもので、興行としての役割感がすごく高まってしまった音楽だと思う。それがハリボテだとは思わないけども、内容よりも“L.A.メタルである”という器のあり方が大事だったという部分が結果、出てきていたように思う。それ以前のハードロックも、定型化していったことが、パンクによって糾弾される理由のひとつになったところがあったわけだよね? でも今、むしろこうしてロックショウを掲げること自体、圧倒的に、いろんな意味で蔓延してる音楽に対して、何かを糾弾する方法論になり得るんじゃないかと、自分には思えるんですよ。だからそのために今回、L.A.メタル的なものを使うというのは、あくまで作戦というか手法なんです。少年期の自分がスティーヴン・タイラーみたいになりたいと思って真似をしたのは幼い自己同一化でしかなかったけども、それとは違う。

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