【連載】CIVILIAN コヤマヒデカズの“深夜の読書感想文” 第十一回/泉鏡花『高野聖』

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こんにちはこんばんは。コヤマです。
CIVILIANというバンドで歌とギターと作詞作曲をしています。

連載11回目です。夏です。暑い。とにかく暑い。逆にここまで暑いと太陽光によって地球が殺菌されて清潔な惑星になるのでは?と思うくらい、明確な痛みを伴った日差しが容赦無く肌を焼いていきます。「額に太陽光を15分以上浴びると身体にいい」というざっくり過ぎる情報を聞いて、少しの間であれば…と肌を晒して歩いてみても、「焼かれる」という身の危険によってすぐに日陰に隠れてしまいます。いまラジオのレギュラー番組をやらせて頂いているZIP-FMのスタッフの方は太陽が大好きだそうで、外を歩く時も自ら嬉々として太陽に焼かれに行くのだとか。黒人として生まれていたらこんなにも気にしなかったのだろうか。

日本各地で記録的な猛暑らしいですね。そうで無くてもここ最近は気象による災害が何度も起こっていて、一瞬にして日常生活を奪われてしまった方々のことを思うと胸が痛みます。地球上に生物が誕生してから今日に至るまで、人間も動物もその他全ての生物達は、自然や様々なものに淘汰されながらここまで生き残ってきました。自然災害だけでなく人間同士の日常的な諍いまで含めて、悲しいことや理不尽や圧倒的な暴力は頼んでいないのに勝手に向こうからやってきます。時としてそれは回避不可能で、そういうものと出会うたびに無力感に苛まれますが、それでも出来る事といったら精々抗いながら生きることくらいなので、せめて音楽や小説や人の作った創作物達が、魔除けや逃げ場やセーフネットや理解ある友達のようなものになってくれたらいいなと心の底から思います。

人にとって衣食住以外のものが本当に不要なものならば、音楽を含む全ての芸術は淘汰されとっくにこの世から無くなっている筈です。今日お話しする小説が書かれたのは今から100年以上前。それが今でも必要とされ、楽しまれているという事自体に感動すら覚えます。
それじゃあ、11冊目の本の話をします。


(この感想文は内容のネタバレを多分に含みます。未読の方はご了承の上お読みください。)

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【第十一回 泉鏡花『高野聖』】

■「近代幻想文学の先駆者」の力は伊達ではなかった

第十一回はこの方。明治6年(1873年)生まれの小説家、泉鏡花(いずみ・きょうか)の代表作『高野聖(こうやひじり)』です。

まずお話ししたいのが、なぜ今回取り上げたのが泉鏡花(以下敬称略)なのかという事。これを読んでいる方の中には参加した方もいるのではと思いますが、今年の5月に行われた自分のバンドCIVILIANの自主企画ライブにて、僕等がリスペクトするアーティストの皆さんと共演させて頂いた時のことです。東京公演でご一緒させて頂いた中田裕二さんと最初に顔合わせ(兼食事会)をした時、様々なお話で盛り上がったのですが、僕が中田さんに歌詞のことについて相談に乗ってもらった際、中田さんご本人の口から「泉鏡花を読みなさい」とのお言葉を頂いたのでした。これは読まなければならん、と思い読み始めたはいいものの、正直に言いますと、はじめの20ページほどはなかなかに読むのが大変でした(理由はのちほど)。でも、大変だったのも最初だけで、読み終えてみれば本当に面白いものでした。

泉鏡花(本名:泉鏡太郎)は、明治時代を生き昭和の初めに亡くなった小説家です。そしてこの『高野聖』が書かれたのは明治33年、西暦1900年に書かれた短編小説です。なんと今から118年前。泉鏡花は28歳の時にこの『高野聖』を書き上げました。鏡花はこの『高野聖』によって「近代における日本の幻想文学の先駆者」として評価されることになります。

「幻想文学」とはなんぞや。ネットで「幻想文学」を検索すればすぐに出てくることですが、幻想文学とは「超自然的な事柄、通常ではあり得ない現象などを扱った文学作品たち」とのこと。「超自然」とは「自然界の法則では説明できないような事象・神秘的な現象」のこと。はて、それはつまりファンタジー小説のことでは?幻想文学とファンタジーには一体何の違いが?などと疑問に思って調べていると、「この物語は作り話です」という前提がある上で書かれるのがファンタジー、我々の現実世界と地続きになっている体で書かれるのが幻想小説では?という見解が。作り手も読み手も架空の物語であることを分かっていて、現実にはあり得ない世界を楽しむのがファンタジー、それに対してあくまで我々の現実世界をベースにしていて、「ひょっとしたら自分の日常にもこんなことが起こるかも知れない」と錯覚するような、現実というもの自体の認識を揺るがすようなものが幻想小説である、と。あくまで一説ですが、そういった「幻想小説」において、この泉鏡花の『高野聖』は金字塔とも呼べる作品です。

何しろ書かれたのが118年前。現代の文章ではなかなか見かけない難しい単語や言い回し、それに加えて体言止めを多用する独特の文体。「読むのが大変」だと感じたのはこの部分で、文に慣れるまでは何処で文章が切れているのかも分からないところがあり、さらに語られているのが明治時代の風景ですので、最初のうちは頭の中で情景を想像しづらい部分がありました(僕が慣れていなかっただけで、作品が悪いのではありません)。しかし一度慣れてしまえば、前述した体言止めの文章がリズム良く頭に入ってきて、どんどんスラスラと読めるようになってきます。最後まで読み終わった後でもう一度最初からしばらく読み返しましたが、最初の苦労は何処へやら、何の苦もなく読めるので不思議です。「自分の頭が作者の文体に慣れていく」という、小説を読んでいると度々味わう感覚を強烈に感じました。音楽において同様の経験がある方も多いのでは。最初は何が良いのかいまいち分からなかったのに、気が付いたら感動するほど好きになっていた、というような。

高野聖[翻訳版] 泉鏡花 現代語訳集2
泉 鏡花 (著), 白水 銀雪 (翻訳)
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ちなみに『高野聖』は現代語訳版が売っているので、ストーリーだけ追いたい場合はそちらの方が読みやすいかも知れません。が、明治の時代において人気作家と言われた小説家の文体や表現に触れるためにも、苦労してでも絶対に原文を読むべきです。没後50年が経過しているので無料で読めますしね。


「私」という青年が、帰省するために東京から出発した汽車に乗っています。車内にはたまたまお坊さんと思しき男が同乗しており、どうやら方向が一緒のよう。旅の僧は年齢45~6歳くらい、柔和で大人しい雰囲気のお坊さんでした。後で分かったのが、宗朝という名前の大和尚(徳の高い偉いお坊さん)だったそうです。

途中で昼飯に鮨(すし)を買った青年でしたが、ばらばらと海苔がかかった貧相な五目飯だった為、「人参とかんぴょうばっかりだ!」と思わず声に出して叫んでしまいます。それを聞いた旅の僧が堪えきれずにくっくっと笑い出し、それから青年はこの僧と仲良くなったのでした。聞けばこの僧は敦賀(福井県)で一泊する予定だそう。青年も同じく敦賀で泊まる予定だったようで、さらに青年が泊まる予定の宿がサービスのひどい宿だということで、お坊さんに頼んで一緒に泊めてもらう事にしました。

豪華ではありませんがとても居心地の良いその宿で、なかなか眠ることができない青年は、仲良くなったついでに旅の僧にわがままを言い、何か面白い話を聞かせてくれませんか、とお願いしました。すると僧は「出家のいうことでも、教(おしえ)だの、戒(いましめ)だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい」と言って、自分がまだ若かった頃に体験した、不気味で妖艶な、不思議な話をしてくれたのでした。小説の一番初めに書かれている「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう~」というのは、この僧の話の冒頭です。

僧が今より若かった頃、飛騨(岐阜県)から信州(長野県)へ向かう途中、暑さでどうにも喉が渇いて茶屋に立ち寄った時のことでした。そこで富山の薬売りと出会うのですが、この男が人をネチネチとからかってくるイヤな男で、僧もまだ若いので顔を真っ赤にして、たまらず茶屋を逃げるように去ってしまいます。

そこから腹立ち紛れにせっせと先を急いだのですが、途中からさっきの薬売りが僧を無言で追い抜いてさっさと先へ行ってしまいました。するとその薬売りは分かれ道で立ち止まり、もう人が立ち入らなくなった危険な旧道の方へ間違って進んで行ってしまいます。あとから来た百姓に聞けば、50年も前までは人の往来もあったが、今ではとても通れる道ではないから、くれぐれも通らないように、とのこと。僧はしばらく考えたあと、薬売りを連れ戻そうと自分も旧道に入って行きました。それは男気があるからでも、勇敢だからでもありません。「イヤな奴だ」と思った薬売りだからこそ、このまま無視しては、まるで自分が気にくわない人間をわざと見殺しにしたように思えてどうしても引っかかるからです。

途中、何匹もの蛇、大きなもので体長3メートルほどのものに出会い、昼寝の邪魔はしませんからどうか無事に通してくださいとびくびくしながら通り抜け、さらには蛭(ヒル)の巣に入ってしまい木の上から大量の蛭に降ってこられ、体にくっつかれ血を吸われ(この蛭の描写が絶妙に気持ち悪く、読んでいると自分の体まで痒くなってくるようでした)、僧は恐怖で叫びながら蛭を夢中で剥がし、何とか道を駆け抜けます。

どうにか蛭の林を抜け、薬売りを探してさらに奥へと進んでいくと、そこには一軒の家がありました。蛭に血を吸われまくった体が気持ち悪くて仕方なく、すでに目も眩んで倒れそうだった僧は、ここに一晩休ませて貰えないか尋ねてみることに。家には馬が一頭、白痴かと見える足の不自由な少年、そして上品で優しげなとても美しい女が住んでいました。そしてもう一人、馬を町へ売りに出かけようとする親仁(おやじ)がいます。

もう一歩も歩けそうにないのです、後生ですから、と僧が女に頼み込むと、女は快く迎え入れます。蛭に吸われた身体を一刻も早く何とかしたい僧は、身体を拭きたいので濡れた雑巾をくれませんかとお願いするのですが、女は、それなら裏の崖を降りたところに綺麗な水の流れがあるので、そこで身体を流しては如何でしょう、私も米を研ぎに一緒に参ります、と言って僧を崖の下に案内します。

崖の下に着き、僧が服を着たまま腕を洗っていると、女は「そんな行儀のいいことをしていたらお召し物が濡れます、すっぱり裸になってお洗いなさいまし」と僧の服を脱がせ、僧の背中を流し始めます。不思議なことに、蛭に血を吸われた体を女の手が触ると、痛みが遠のいてゆき、まるで花に抱かれているような心持ちでうとうととしてしまいました。危なく尻餅をついて川へ落ちそうになったところを女に手を回され、気がつくと女も服を全て脱ぎ、裸で僧に寄り添っていたのでした。

都でもそうそう見かけないほどの美人に加え弱々しそうな雰囲気。”こういう女の汗は薄紅(うすくれない)になって流れよう”と僧が思うほどの美しい身体。女の優しさと妖艶さに惹かれてゆく僧でしたが、その時、突然飛び出してきた蝙蝠や猿が女に飛びつこうとしてきます。「お客様がいるじゃないか、お前達は生意気だよ」と女は怒り、動物たちを追い払った女でしたが、動物が去った後も不機嫌そうに着物を着なおしていました。

女の魅力に惹かれつつも何とか家へと帰ってきた僧ですが、留守の番をしていた親仁から、あれ、お坊さん、元の身体で帰ってきたんですか、と訳の分からない事を言われます。その晩、夕食を食べた後で、女は例の白痴の男(女の亭主だそうです)に歌を一つ歌わせます。その歌が想像していたよりも遥かに見事だったこと、そしてこんなに美しい女の人の、白痴の男に対する優しさ、隔てなさ、親切さに感動し、僧は胸が痛くなり思わず涙を流してしまいました。

そして夜が更け、僧が寝床につこうとすると、家の周りに奇妙な気配を感じます。ひどく興奮した様子の動物たちに家の周りを取り囲まれているような気配。恐ろしくなった僧は念仏を唱えながら眠りにつくのですが、その時、違う部屋にいる女の口から、小声で寝言のような言葉が聞こえてきました。
「お客様があるよ(いるよ)」と。
まるで辺りを取り囲む動物たちを宥めるような寝言でした。

次の日、僧は女の家を出て里を目指しますが、女のことが気になって気になって、今すぐ道を引き返して女と一緒に生涯暮らそうか、辛い修行など全て投げ出してあの女といられたらどれだけ良いだろうかと、全く歩を進めることが出来ずにいました。いよいよ思い切って道を戻ろうとしたその時、馬を売って代わりに鯉を買ってきた親仁に再び声を掛けられます。そこで、あの美しい女が一体どういうものか、全ての秘密を聞くのでした。というお話。


まず何よりも、100年も前に書かれた文だというのに、いまの時代に生きる僕が読んでも、きっと当時の人間が読んで感じたのと同じように恐ろしく、艶めかしく、一つのお話として全く風化せずに読めることが驚きです。一つ一つの場面の説明も語彙が豊かで、蛭に降ってこられるところなどは読んでいて身の毛がよだちましたし、崖の下での女との妖艶なやりとりにはドキドキしました。

結果として、僧は助かり、薬売りは助からなかったのですが、男を虜にする魔性の魅力を持ったこの世ならざる存在の美女に優しくされつつも、自分だけは他の男と違う優しさを与えられ現世に戻ることができる、というこの話の構図。これこそ現代日本のアニメやラノベなどにも通ずる、100年前から男が思い描いている理想の女性像の一つなのかも知れません。そして、女にだらしなく嫌味な薬売りは助からず、女の魅力に惹かれながらも一線は超えず、優しさに涙することが出来る僧は助かることができた。肉欲のみで近づいた男は断罪され、異性を純粋に思うことのできる男が救済される物語です。きっと鏡花自身にもそんな願望や理想があったのかも知れません。

中田さん、ありがとうございました。とてもとても面白かったです。青空文庫で無料で読めますので、少しでも面白さが伝わったら、一度読んでみてくださいね。今回ばかりは、この感想文を読んだ後で読んでも大丈夫だと思います。何しろ文章が少し難しいですから、この感想文と照らし合わせながら読むくらいでも良いかも。怪奇小説や妖怪が出てくるものなどが好きなら、きっとたまらないと思います。是非是非。
それじゃあまた。

CIVILIAN ニューシングル「何度でも」

2018年8月8日(水)発売
・初回生産限定盤 CD+DVD SRCL-9846~47 / 1,800円(税込)
・通常盤  CD only SRCL‐9848 / 1,200円(税込)
収録曲:
1.何度でも (『スターオーシャン:アナムネシス –TWIN ECLIPSE-』テーマソング)
2.セントエルモ
3.ハッピーホロウと神様倶楽部
4.何度でも-short Ver.- ※M4は初回盤のみ

■「何度でも」先行配信
【iTunes】https://itunes.apple.com/jp/album/id1406700492?at=10lpgB&ct=4547366369908_al&app=itunes
【レコチョク】http://recochoku.com/s0/nandodemo/
【mora】http://mora.jp/package/43000001/4547366369892/
【Applemusic】https://itunes.apple.com/jp/album/%E4%BD%95%E5%BA%A6%E3%81%A7%E3%82%82-single/1406700492?l=ja&ls=1
【LINE MUSIC】https://music.line.me/launch?target=album&item=mb00000000016a1ee2&cc=JP

<CIVILIAN One Man Live 2018 “again & again”>

2018年10月11日(木)東京・渋谷WWW X
2018年10月23日(水)大阪・梅田Shangri-La

CIVILIAN ライブ出演情報

<RISING SUN ROCK FESTIVAL 2018 in EZO>
2018年8月10日(金)11日(土)
会場 : 北海道・石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ
※CIVILIANの出演は8月11日になります。

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