【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第57回「苗木城(岐阜県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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安土城以上にこの城もかなりPUNKな城だと評価したい。PUNKとは何か?それは他と違うということであり、斬新ということであり、我が道を突っ走っているという感じがどれくらい出てるか、これに尽きる。苗木城はPUNK感が出まくっている最高の城なのだ。珍しい作りの城や「こういうのは日本でこの城だけです」みたいな謳い方をした城は数多く存在するが、苗木城ほど見た目と城その物の作りがオリジナルティーに溢れた城はない。日本百名城などと言われ選ばれてる城があるが、苗木城はそれに選ばれていない。そもそもなんなんだ?その日本百名城って?勝手に権力者が決めたことだろう。だとしてこの苗木城が入ってないことを考えるとよっぽどセンスの無い取り決め方をしたってことだ。私はそういうのをまず信用しない。苗木城ほどオリジナルに溢れた最高なPUNKな城を紹介しないなんて有り得ない。そして苗木城ほど素晴らしい城を私こそ知らないのだ、そう評価したい。日本には誰からも選ばれず評価されない眠った名城がたくさん存在するのだ。まさに現在の中島卓偉のような状況、だ!


最初の築城は1300年代とされているが詳しくは定かではない。遠山氏、苗木藩で間違いはないだろう。遠山氏が1600年にこの城を本格的に築城し、代々増築を重ねた。12代に渡りこの城を守り幕末を向えて廃城となった。苗木藩は1万石という小規模な藩だったにも関わらずこれだけの規模の城を持てたというのは当時としては異例であり、1万石足らずの武将達は城には住めず、陣屋で暮らすというのが通常のスタイルであった。ましてや5万石までいかないと天守も建てられないと言われていた江戸時代初期にしっかりと天守まで設けている。苗木城がどのようにPUNKなのか、そこにまずフォーカスしてみたいのだが、1万石の大名は言ってしまえば金を持っていない。財力がないので弱小の武将と言われてもしょうがない立場にある。だがその財力がないことを逆手に取り、頭を使い、天然の要害を最大限に活用し、それでいて決してみすぼらしくは見せない最強の城を築いたのだ。卓偉はレコーディングのバジェットが少ないのでミュージシャンに頼めず、結局自分で全部楽器を弾いてアルバム作っちゃった、というのととても似ている。頭を使った工夫で建てられた最高かつ最強の城なのである。まずどのように違うかと言えば、現在は石垣が残る山城なので日本の山城とさほど変わらない印象を受けると思う、ここでイマジンしてほしい。通常の城は姫路城や松本城のような風貌の城をイメージすると思う。だが苗木城は基本的に壁が土壁、もしくは板張り。屋根は板葺きの切妻造りであったのだ。そして懸造(かけづくり)と言って、清水寺のような地下部分や崖側に柱でもって面積を稼ぐ建て方をしていた。天守を初め、御殿や櫓もそういう造りであったとされる。城の見た目の根本が他の城とは全く違うデザインなのである。CGの映像や画像もあるので見てみてほしい。しかも復元絵図も残っている。それは1718年に地震によって崩れた石垣を修復するにあたって幕府に提出した修復願いの苗木城絵図がしっかりと残っていたからである。これは奇跡だ。そしてなんと幸運。結論から言えば苗木城は復元が可能、しかも山頂の部分をほとんど復元出来る可能性を秘めているということになる。幕末までしっかりと全てが残っていたが、廃城となり取り壊しに。売却が行われたが壊すにも金がかかるということで廃墟の状態も続いたとか。三ノ丸にあった風吹門の柱と扉が近くのお寺に移されていたことがわかり、今それは城の麓にある苗木遠山資料館に移され保存されている。存在感の凄い門、必見だ。この資料館に苗木城の復元ジオラマが展示されているので是非これを見てほしい。これを見なくては苗木城は語れない、そう思っている。これを見ることで誰もがイマジンする城のイメージを覆されると思う。だからこそ苗木城は卓偉と同じようにPUNKなのである。


苗木城は432mの山に建てられている。木曽川と山の田川を天然の堀にした元祖山城である。現在は資料館側が大手とされているが、築城当時、江戸時代半ばまでは三ノ丸の風吹門と真逆にある竹門側が大手であった。この道は四十八曲がりと呼ばれており、その名の通り48回曲がくねりながらの道になっている。まさにTHE LONG AND WINDING ROADだ。この下に山の田川が流れており、そこに大手門があったとされる。この道を行けばわかるさと猪木さんも言っているが、かなりの勾配である。城を攻めるにはこの道を登らなければならないと考えたらすでに守りは頑丈だ。現在の大手側に御殿があったわけなので本来の城の裏側に生活する空間を造り、大手は険しく、という防御が伺える。強面の人が髭を剃ると意外と童顔というのに似ている。しかもこの四十八曲がり、途中にはしっかりと石垣が施されており、城マニア必見である。苗木城を紹介する写真はこの四十八曲がりの石垣がない。これはもったいない。是非三ノ丸から下ってみるのも良し、もちろん麓の大手門跡から登るのもお勧めである。


ここまでが城の周りの話、ここからが本編だ。まずこの三ノ丸。この角に天守か?と言えるほどの大きな櫓台の跡がある。大矢倉跡である。段になった石造りで地下から数えて3階建てだったとされる。城下町側の物見櫓の役割を果たしていたとされるが、もはやこれは天守と言っても過言じゃない大きさと威嚇を感じる。大矢倉の外側には北門跡があり、家臣達の屋敷跡だったとされる曲輪の跡に作られたさくら公園や木曽川に降りれる道に繋がっている。そこには堀と言えば小さいが飲料用として使う池もある。大矢倉の横にあった門が資料館に保存されている風吹門だ。二階建ての櫓門だったことが絵図でわかっている。この門が虎口になっていないことから当時は搦手だったことがわかる。搦手というより単なる裏口に近いかもしれない。というのも大手の竹門を目指して登っても、裏の風吹門を目指して登ってもどっちにしろ三ノ丸に着くように出来ているのだ。となるとこの城の搦手は何処になるのか?そう考えるだけで面白い。


三ノ丸から二ノ丸に入るにあたって大門跡があるが、この門が城内で一番大きな門だったとされる。幅を見ても確かに大きな門だったことがわかる。こんな山城にこれだけ大きな門があったとすると威圧感も半端ない。その大門を正面に右側が二ノ丸御殿跡だ。資料館でもらえる見取り図に詳しくどこに何が建っていたかが記載されているのでそれと照らし合わせてイマジンすると面白い。居間があったり、書院があったり、個人的には女中部屋が気になって眠れない。大門の後は綿蔵門、そこから坂下門、と、どんどん門が続く。しかもそんなに門と門の距離もないのにだ。悶々としてくる。坂下門だけに坂下千里子も悶々としてくる。我ながら書いていて意味がわからない。この門が続くデザインとセンス、これも防御の一つと言えるだろう。しかも道の外側には常に狭間付きの土塀が縁取られていた。屋根続きにもなっていたというから家臣の移動にも優しい造りとも言える。岐阜の夏は暑く、冬は寒い。それを凌ぐにも屋根付きは家来や家臣には有り難かったはずだ。そして菱樽門へ。この門も大きな二階建ての櫓門で、本丸へ通す重要な門だったとされる。ここを潜った後にそびえる本丸の石垣も圧巻だ。岩場を利用して組んだ石垣なので沖縄の城のように角が少なく丸みを帯びているのが美しい。ここで本丸へ行かずに左に入ると的場跡がある。縦長になった曲輪の先には土でもった安土が今も残っている。ここで弓の練習をしたのだ。もしくは100m全速力ダッシュをしたか、多分そっちだろう。日本の城でもこういった的場が残っているのは非常に珍しい。二ノ丸御殿の中にももう一つ的場跡がある。素晴らしい、そして珍しい、的場浩司もびっくりだ。本丸口門の隣りにまた井戸がある。千石井戸と呼ばれどんなに日照りが続いても枯れることなく今日まで水を湛えている。この山の高さで水が枯れない井戸があるというのは籠城した時こそ本当に心強い。本丸に上がる玄関口門を潜ればいよいよ本丸、そして天守だ。見渡すとスペースがかなり狭いことがわかる。そこで清水寺のように柱をむき出しにして、岩に柱穴を開け、柱で軸とスペースを造り建物を上に持ち上げていた。この本丸に千畳敷を二つ、城主の居間、次ノ間、台所、そして天守が引き締め合っていたのをイマジンしてほしい。現在の本丸よりも外に出っ張って建てられていたとイマジンしてほしいのだ。現在は本丸から天守に上がるには木の階段が設けられているが、当時はこの階段は無い。本丸の入り口には玉砂利が敷かれ(これは発掘調査でも玉砂利が発見されたので復元されている)そこから左へ懸造の千畳敷を二つ渡り、次ノ間に渡り、そこから城主の居間を抜けて天守に上がったそうな。実に良く出来ている。現在は天守の地下部分、懸造がむき出しの状態で復元されている。近くの岩をよく見てもらえるとわかるが柱穴の跡が沢山探せると思う。これはたまらない。ここを軸にして柱を建てていたのだ。岩場ならではの跡である。ここにあった建物が12代に渡って管理されて幕末まで保存されてきたと考えるだけで感動する。


本丸まで見学したら今度は二ノ丸御殿の奥も見学したい。ここからさっきの的場の曲輪の裏にある仕切門跡から、二ノ丸御殿の一番奥にある不明門までは犬走りのように細長い曲輪で繋がっている。ここも必見だ。しっかりと石垣が組まれ、木曽川の方から登ってくる敵に備え櫓も設けられていた。現在は仕切門の先が通行禁止になっているので全部を廻れないないが、不明門側からUターンしてでもこの犬走りの曲輪は見学してほしい。木曽川の眺めも最高である。そしてこの不明門。なんと門の外に道がないのである。では何故門にしたのか?それもこれも不明の不明門なのである。最高!城内で死んだ人を出す門だったという説もあるが、その先に道がないのにどうやって城の外に出ればいいのだ。攻められた時の逃げ道としても考えられるがそもそも道がないというのが不可解である。謎があるから歴史は面白い。この門が搦手か?と思いきや道がないなら違う気がする。こういうのが最高なんすよね。現在も二ノ丸御殿の石垣の修復が進められており、より一層見学がしやすくなるだろう。乞うご期待である。


苗木城がある中津川は「栗きんとん発祥の街」ということで駅前の物産展で歴史ある和菓子屋の栗きんとんを食べてもらいたい。ただ飲み物がないと栗きんとんは口内の水分を取られる、乾いた栗きんとんに掻き消されて最後の声も聞こえない状態になるのでご注意願いたい。B-BLUEではなく岐阜の頭文字を取るとG-BLUEになりかねない。駅構内にある立ち食い蕎麦も岐阜ならではの濃い出汁の汁が非常に美味かった。このコラムでも紹介したが、岐阜県の名城として岩村城も鉄板、もちろんこの苗木城も鉄板である。これはもはやセットだ。こんな2トップはない。DARYL HALL&JOHN OATES、もしくはSIMON&GARFUNKELくらいの2トップと言えるだろう。ぶっちゃけこのどちらもそんなに好きじゃない私はどうしたらいいんだろうか?小堺一機と関根勤のコサキンと言った方が私的には超しっくりくる。彼等二人が昔コンビだったことを知るのは我々の世代でギリだろう。最後に苗木城の最高な写真スポットをお伝えしよう。城の近くに架かる木曽川を渡る橋がある。城山大橋という橋からの苗木城の眺め、これは本当に素晴らしい。今でこそ天守の懸造と大矢倉の石垣が若干見える程度だが、ここに壁が土壁、もしくは板張り。屋根は板葺きの切妻造り、清水寺のような懸造りの城がそびえていたとイマジンすると鳥肌ものだ。こないだtvkさんの私の城番組のロケで来城した時にここで写真を撮ったのだが、足元を見るとこんな物が落ちていた。なつかしの46分テープだ。しかも「稲垣潤一」と記載してある。稲垣潤一さんの曲を編集したBESTっぽい。なんでこんなところに捨ててんだ。だが敢えて、そこは敢えて、もう一度この橋の歩道に、もう一度このテープの破片をそっと置いた。そしていつかまた取りに来ようと思う、そう、クリスマスキャロルの頃には、取りに来ようと思う。


あぁ 苗木城、また訪れたい……。


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