【インタビュー】中島卓偉、「我が子に捧げる PUNK SONG」はミュージシャン人生の転換点

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■音楽一本でいきたいって気持ちが強すぎて

──最初に曲を作り始めたのはいつごろですか?

中島卓偉:中1の春にエレキを買って、コードを覚えていくうちに曲がかけるとわかったんです。学校から帰ってきてMTVをずっと観てました。下に出るクレジットを頑張ってメモって、それがノート2冊くらいになっていたんで、15歳になって東京に出てきてCDやレコードを物色していました。高円寺とか下北、お茶の水、秋葉とかのアナログ屋でひたすら照らし合わせて、「あった!」みたいな。

──曲が書けるということに気付いたきっかけは?

中島卓偉:今思えば、保育園に通っているときから、いつもよくわかんないフレーズが鳴っていたんです。これは一体誰の曲なんだ?っていう感覚で。小学校に入っても音楽の授業が面白くなくて、小さいときからザ・ビートルズを聴いていたから、エレキ・ギターがカッコいいという感覚があって、中学生のときにセックス・ピストルズを見てやっぱりエレキを買おうってなった。当時はハードロックやメタル全盛だったから、みんなギター・ソロを弾いているんだけど、僕が一番最初に弾きたかったのは、「A Hard Day's Night」のジャーン(イントロ)だったんです。やっぱり和音が好きだっていうことに気付いたんですね。気持ちのいい和音はなんだろうと、コード名もわかんないまま耳で追っかけていた。で、あるとき適当なコードを並べていたらメロディーが聞こえてきて「これ、作曲っていうのかもしれないなー」って。

──きてるなー。

中島卓偉:今思うと、小学校1年生の最初の一学期を終えた時点で、帰り道に毎日ため息付いて下校している自分に気付いたんですよね(笑)。

──え?

中島卓偉:「何なんだ、この集団行動って」って。子どもながら、先生の「この話は為になる」「この話はつまらない」が明確に区別がついてしまって、面白い話がなかった。為になる話なら食い入るように聞いていたんですけどね。三者面談で「うちの子は先生の話聞いてますか?」「いや、あんまり聞いてないですね」って言われて、家帰って親父にぶん殴られるわけですよ。うちの親父は大学の教授だったんで、「先生が一番強い」「学校の先生が正しい」という考えの人だから、僕は言い訳できなかった。「だって先生、面白くねえ話してるもん」って思ったけど、言葉も知らないし上から色々言われて弁解できないわけです。子どもながら「先生が正しいってどういうことなんだろうな」って思った。「確かに為になることも言うけど、ならない話をしてるときはどうすりゃいいんだろう」って、ずーっと抱えて小学校時代を生きてたんです。

──ずいぶんとませてるなあ。

中島卓偉:兄貴は頭が良くて勉強ができる人で親父にも忠誠タイプだったけど、僕は兄貴と同じようにできない劣等感もあり、かといって背も低いからスポーツも得意じゃなかった。長距離は速く走れたけど、それくらい。ただ、隠していたけど、自分が途轍もない声をもっているってことは知っていたんです。別に歌手になろうとか思ってなかったけど、誰よりも声が通って、ピッチ(音程)がいいのも分かっていた。街を歩いていると音楽が聞こえてきてね、あれもいいこれもいいって、音楽は好きだったんです。

──音楽家としての目覚めが見え始めましたね。

中島卓偉:母親もいなかったですし、小学校の時に親父が再婚したけど継母ともそりが合わず、学校ではいじめられ、先生には馬鹿にされ、親父は暴力ばっかり、兄貴とも仲悪いっていう状況で、小学校の高学年ぐらいから鬱じゃないけど「俺、どうなっちゃうんだろ」「早く大人になるにはどうすればいいんだ」「早くこの息の詰まる家族から出るにはどうすれば」って思っていたとき、MTVのセックス・ピストルズを観たらブワーって涙が出た。自分のフラストレーションをぶちまけてくれる感覚を得てしまったんですよね。そんなつもりでジョニー・ロットンは歌っていたわけじゃないんですけど、俺にもなんかできるかもしれないって。

──思わせてくれた。



中島卓偉:英語で何言ってるのかわかんないけど、ギターもシンプルだしカッコよさそうだなと思って、それまで貯めた貯金でエレキギターを買った。そしたら、和音が好きなことに気が付いて、なんか曲も聞こえてきた。作曲ができることも恥ずかしくて周りには言えなかったけど、中学3年生のときに文化祭でZIGGYの歌を歌ったんですけどそれが大成功で、そこで初めてボーカリストといてセンターに立って歌が歌えるという自分が見えた。ライブが終わって家に帰ってもアドレナリンが出ているせいで興奮しててね、「この感覚はなんだ」みたいな。親父は「勉強しないなら早く家出ろ」「何になりたいのか早く決めろ」っていう人だったんで、それまでは美容師になろうと思っていたけど、その文化祭を境に翌日から「いや、美容師じゃないな」「俺が世に出ていかなかったら何にもなんない」「自分の人生に絶対後悔するかもしれない」みたいに思えてきた。

──ついに中島卓偉が生まれる。

中島卓偉:継母からも虐待をうけ、やり返せない。同じ時に兄貴と血だらけになるような人生最大の大喧嘩をして、それ以来兄貴とは完全に口をきかない日が続いちゃった。つまりは家を飛び出す状況が整うわけです。

──それが15歳のときですね。

中島卓偉:高校も義務教育じゃないんだったら行く必要ねえだろって。東京に出るのに18歳と15歳では訳が違う…自分が形成されていない15歳で学んだ方が絶対にいいと思ったんです。音楽一本でいきたいって気持ちが強すぎて、新聞配達をしながら飯付き/風呂なし/トイレ共同/三畳一間みたいなところを探した。いわば糸の切れた凧。「音楽やるなら勘当だ」と言われたんですけど、親父には「とにかく自分の金でやるから文句は言わないでくれ」って言って、部屋の契約の印だけ押してもらって、それっきり。そのタイミングで親父は癌になり、あっという間に翌年の6月に死んでしまった。

──壮絶だな。

中島卓偉:誰の世話にもならないと「家族というバンドを脱退するような感覚」で出て行ったので、実はこんな曲を書くとは自分でも全然思っていなかったな。

──東京に出て、ひとりで曲を書き始めるわけですよね?

中島卓偉:死ぬほど曲書いてましたよ。次々とCD/レコードを買っていたんで。僕は曲を書けなくなったことが一度もないから「なんでそんなに曲書けるんすか?」ってよく聞かれるんですけど、僕の答えは簡単で「曲を書く数だけ、曲を聞いてきた」から。オールジャンルの音楽が好きで、すべてにヒントがある。そこで学んだものが自分の中でフィードバックされて曲が生まれるわけで、汚い話ですけど、飯食えば糞が出るっていう感覚で、もう出てくる出てくる(笑)。

──そんな中からも発見や驚きもあるんでしょう?

中島卓偉:曲ができると当然嬉しいし、「こんな曲あんな曲を書きたい」って思ってそれが形になると嬉しい。新しいコードを覚えて「この和音いいな、これで一曲かけねえかな」とルールを壊していく。ありがたいことに耳が良かったから、聞けばその音がわかるんで。

──そこ、大事なポイントですね。

中島卓偉:僕は譜面も読めないし小節も数えられないけど、曲を聞いてコード進行がどう展開したか分からなければミュージシャンとは言えないと思うんです。「そうじゃなきゃダメだし、でなきゃ恥ずかしい」と思っていたんで、15歳のときにはそれは身についていました。

──今、冷や汗書いているプロミュージシャン、いっぱいいると思います。

中島卓偉:はは(笑)。でも僕が好きな尊敬するミュージシャンはみんなそうですよ。森重樹一さんも和田唱さんもそう。和田さんとアコースティック・ギターをもって一緒に作曲したときは、ツーカーだったことが嬉しくて「勉強してきてよかった」って思いましたもんね。でも和田さんは「それが当然だよ」って。ジョン・レノンだってポール・マッカートニーだって、そうだったからこそ会話ができたわけでね、次のコードなんだっけ?って言ってたら会話にならないから。

──これぞ、喋ってほしかった話です。

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