【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第47回「岩村城(岐阜県)卓偉が行ったことある回数 1回」

ポスト

日本の三大山城のひとつ岩村城の登場だ。ひとつは高取城、そしてこの岩村城。もうひとつは岡山県備中松山城という場合やら、兵庫県竹田城という場合やら、千葉県浦安にあるシンデレラ城などいろいろあるが、高取城と岩村城は鉄板だと言えるだろう。

この城も行きたくてしかたない城であった。常に一人で夢を見ていた。まさにOH!YEAH!I'M ONLY DREAMIN'であった。これがまたtvkMUTOMAの城のコーナーでロケさせてもらうこととなり、朝8時に都内出発、岐阜県を目指し日帰り弾丸、滞在時間4時間で帰ってきた。まさに一瞬の夢のような1日であった。tvkさんは神様である、神のテレビ局である。お金があるならtvkの本社の周りに堀を巡らし石垣を築きたい。牛蒡積みで。

岐阜の城と言えばすぐ岐阜城やら大垣城があがるが、それはNO NO NOである。岐阜城の天守は模擬天守、愛を持って言わせてもらうが、有り得ない。確かに大垣城は空襲がなければ国宝にも指定されていた天守があった。現在まで残っていれば岐阜ナンバーワンの城に成り得たかもしれない。だが岐阜の城と言えば絶対に岩村城だと宣言したい。もしくは隣りの中津川にある苗木城である(この城も凄いのだ)。この発言に城マニアは拍手喝采である。卓偉さんわかってるね~である。


城の築城は古く、鎌倉時代から存在したという説がある。だが今の形になったのは河尻秀隆が1570年代に増築した頃だろう。そしてその後、各務元正が17年の歳月をかけて大修理。そこから沢山の城主が変わり明治を迎えることとなる。今も奇麗に石垣が残るが、実はこれは江戸時代の中期に幕府に申請し石垣修復許可を得たおかげでこれほどまでに綺麗に残っているのである。もちろん昭和に入ってからの修復もある。そのおかげで石垣が真新しい修復という感じではなく、ちゃんと味のある修復が施されてるように感じるのである。それがまた戦国の雰囲気を醸し出しているのだ。崩れ過ぎてしまっていたらイマジンはより難しくなる。でも新し過ぎないこの感じ。非常に味があるのだ。おっさんなの?ん?まだ若いの?いや、37歳のおっさんだよ。という卓偉的ナイスミドルなとこだろう。

岩村城の石垣は石のひとつひとつが小さめで組まれているのがわかる。これが崩れにくい石垣になったと私は思う。でかい石も見た目はいいが、割れてしまったりちょっとズレてしまうだけで意外にも簡単に崩れてしまう。少しのズレの破壊力が大きいのだ。ライブ中にベーシストが間違えるのと同じくらいの破壊力である。それに対して岩村城の石垣は小ぶりな石を綺麗にまとめているので膨らみもさほど起きていない。女性のケツは膨らんでいてほしい。おっとたまに来る下ネタのインサートか!?そして何より、高石垣を作らなかったことも言えるだろう。どんな場所も段になった石垣が多い。一枚の高石垣を作らず、高さに無理をせず、段にすることで頑丈さを高めているのだ。それはまさにシングル一枚のビッグヒットを狙わず、とにかくいいアルバムを中心にリリースしてきたミュージシャン狂会で一番性格のいい中島卓偉という人のやり方と似ている。

先に岩村城最高の見所をお伝えしてしまうと、本丸に上がる前の六段壁の石垣である。これは本当に見事である。岩村城はここの写真が城本に掲載されることがほとんどだ。実に圧巻である。


この段の雰囲気と、717mの山頂にあることで、東洋のキャリーマチュピチュとも言われるのであろう。いや普通にマチュピチュと呼ぶことで正しい。果たしてマチュピチュとぱみゅぱみゅはどっちが言いづらいのだろう?

この辺の山一体は霧がよく出ることもあり、岩村城の別名は霧ヶ城とも言われている。エアコンで言うと昔懐かしの霧ヶ峰である。徳永さん的に言うと、だ~か~ら~エオリア~である。その霧が出た時の幻想たるや、ぱねえっす。マジぱねえっす。

このロケの日はあいにくの雨。だが私は霧ヶ城と呼ぶと知っていたのでむしろ霧がかった状態を待ち望んでいたのである。ジミヘンのパープルへイズが聴きたくなるのと同じ感覚である。本丸から見える景色は全て霧がかかり、雲の上にいるようだった。雨の日の来城は大変かもしれないが、雨だからこその見所がある、それは霧もそうだが、なんと言っても石畳に作られた排水溝である。登ってる時に上から流れてくる雨水が排水溝をしっかりと流れてくる、これが本当に美しいのだ。これは本当に日本的な様式美と言うか、流れてくる水のサウンドもたまらない。ハイハットを16でハネて刻んでいるかのようだ。山水なので濁りもなくキラキラ輝いている。それが石畳の間を縫い、排水溝に吸い込まれていく様をどう説明したらいいか、まさにTHE WHOのI CAN'T EXPLAINである。

排水溝はただの土の溝ではなく、石畳と同じように石で作った四角い溝の中を水が流れるように設計されている、これが訪れた客に対しても見せる美学になっているのがたまらない。森高千里姐さんが、それパンツ見えちゃうんじゃないすか?ってくらいのミニスカートでターンを回ったらお尻に「M」と入っていたあの生放送、見せる為に「M」と入っていたあの生放送、むしろそこに注目して的なあの生放送、それをテレビで目の当たりにしたあの小学5年生の夏。そんな見せる美学と共通するこの感じ。本当にI CAN'T EXPLAINである。


ただ雨の日はどうしてもこの石畳が滑る。特に帰りは本当によく滑るのである。ファンクラブイベントで司会をやり、つまらないネタを仕込み滑ってしまうマネージャーの砂田くらい滑る。これには気を付けたい。行きで一緒になった三重県の桑名から来ているというおじいさんおばあさん集団はこの滑りに登城を断念。

年寄りは踏ん張れんしな~、転んでもうたら死んでまうしな~、と言ったかどうかはわからない。だがおもくそ三重弁であった、それはまさに三重県出身の渡瀬マキ姐さんの方言丸出しのトークと同じであった。ドキドキすることやめられないってずっと言ってるマキ姐はきっとその滑りをわかった上で登城してくれるはずだ。いやむしろおもくそ滑って転んだところをテレビ的に見せてくれるはずだ。身体を張って笑いを取れるって素敵だ、ネ!


城の登り方として、車で裏の出丸まで行けるがこれはまず絶対にやめよう。これは人の携帯、手帳、パソコンを勝手に見るレベルの低いデリカシーのない人間がするのと同じくらい意味のないことである。表の岩村歴史資料館の駐車場に車を停めて石畳の道を城まで登ることをおすすめする。もしくは岩村駅から城下町を歩いて登城、これこそ拍手喝采だ。大変だがこうじゃねえと岩村城は伝わらない。もっともこの資料館のだだっ広い駐車場は藩主邸跡であり、江戸時代によくあるパターンの、もう城の上まで行くのがかったるいから、麓で生活出来るようにさ、御殿建てちゃおうぜっていうノリである。ちなみにここにある太鼓櫓と表御門は模擬建築されているので本物とはまったく関係ない。本当の太鼓櫓は出丸にあったのだ。こういうのいらんって。それだったら何で追手門の畳橋を復元せんかな。

そう、この畳橋。これが岩村城の何と言ってもお洒落な場所である。城を登り、追手門のあった場所へ行くと、今は空堀を歩いて渡るように作り直されているが、ここはもともと畳橋と呼ばれる橋が架けられ、追手門へ連絡していた。この橋は渡る途中で90度に折れて追手門に連絡する構造になっていたのである。その橋の正面には三重の櫓が存在していた。岩村城には天守はない、しかも三重の建物もここにひとつしかなかった。後は全部2重の櫓だけである、よって、ここにだけ三重の櫓があったということはある種天守代わりだったと言えるだろう。しかも追手門の隣りにあるということで威嚇するにも十分インパクトがある。城のてっぺんではなく麓、もしくは中腹に天守を建てるというのは日本の城でもよくあることである。萩城天守しかり、徳島城御三階櫓しかり、鳥取城の御三階櫓しかりである。いや~卓偉さん本当によく知ってるよね~である。


今後復元の話があるのなら絶対にこの畳橋を復元すべきだと言いたい。臨時通路に変わった空堀も深さが浅くなっているし、もともとなかったところに石段を作って渡らせるのはどうかと思う。いざ敵が攻めてきたらこの畳橋を切り落として防御することが可能になったわけである。なので空堀に当時は石段なんてないのである。それは岩村城絵図が資料館に展示されているのでそれをじっくり見てもらうとわかると思う。この橋を渡る時、まず目の前に迫ってくる三重櫓の大きさ、そして威圧感、最高だったと思う。そして空堀の深さ、木で作られた橋とはいえ、下を見れば深い堀、両サイドが堀切になっていたのだ。まさにナイス追手門アプローチである。ちなみに何故畳橋と呼ぶかと言うと、板を畳みのように切って組み込んで敷いたことでそう呼ばれるのだそうだ。ちなみに本物の畳は縫い付けた後しっかりそれを畳になじませる為に肘でグリグリする。グリグリする。何度もグリグリする。エロい。

岩村城の構造として目を引くのが曲輪の多さである。しかもしっかりと石垣で作られている。非常に家臣想いの構造だ。きっと殿様も言ったであろう。YOU!そこ住んじゃいなよ!あそこの曲輪もさ、空いてるから家臣住ませちゃいなよ!部屋の畳はさ、グリグリしちゃいなよ!おっと!?引き続きたまに来る下ネタのインサートか!?こんなに家臣がたくさん住んでいた城も珍しい。

登城していると両サイドが常に石垣の曲輪が続く。城の麓には民家があるが、実はこれも岩村城内である、岩村城の敷地内に自分の家があるというなんとも羨ましい、よく見ると石垣の切れ目に門の跡があるのがわかる、しかし民家なので見学出来ない。もどかしい。きっと民家にもグリグリした畳の部屋があるんだろう。ああ、卓偉疲れている。


岩村城で興味深いのが二の丸の在り方である。本丸まで行くのに二の丸だけは通ることなく本丸に到達出来てしまうのだ。二の丸の横の通路を歩いていくと本丸に登れる仕組みになっている。これは何か意図的なものがあったと推測する。もったいないのはその二の丸がまったく整備されていないことである。この二の丸は素晴らしく、真ん中に弁天池が存在しており、娯楽を感じるスペースがあるのである。今は木が生い茂ってそれを本丸からは見れないが、本丸の埋門を下り、二の丸を正面に見たら、そのまま生い茂った木の方へ突っ込んで行ってほしい。そうすると左側に弁天池がしっかりと残っている。もうさすがに水ははってないがこれもしっかり観光するような順路にしてほしいなと思う。二の丸は本丸よりスペースも大きく、馬小屋もあったとされるし(ここまで登らされた馬めちゃかわいそう)菱櫓と言う安土城の天守よろしく不等辺の石垣の上に建てられた櫓も存在した。二の丸の下の曲輪から見上げた菱櫓の石垣も素晴らしいが、是非二の丸の整備、切にお願いしたい。

しかし明治時代からここまでほっておくだけでこんなに木って生えるんだなと実感。当時は曲輪の中には木は生えていないとイマジンしてほしい。正直三重櫓の場所なんて木が生え過ぎて薄暗い。ここにそんなにでかい櫓が本当にあったの?と思ってしまうが、当時は周りに生えている木がなかったとイマジンしてほしいのである。櫓は基本的に見張りの意味もあるので見晴らしがよくない場所には建てられないのである。もっとも城下町から城を見上げるとこの追手にあった三重櫓が何よりもよく見えたそうである。


本丸は実にシンプルな作りである。どこかのコーナーの櫓を天守にすることも出来たはずだが、この高さまできたら眺めもいいし、天守はいらないと判断したのだろうか。あっても良かった気もする。本丸には御殿はなく、いわゆる見張りの砦という言い方がぴったりか。卓偉も死んだ後に評価が高まる後付け天才のパターンと言った方がぴったりか。ポイントとしては、本丸の出入り口がこの狭さにも関わらず5カ所もあるということである。これは逃げ道の確保なのか、とてもおもしろい構造だ。1度で5度美味しいとはまさに卓偉ライブと似ているではないか。

1.かっこいい卓偉が観れる
2.エロい卓偉が観れる
3.パフォーマンスが素晴らしい卓偉が観れる
4.歌が凄まじい卓偉が観れる
5.何でこれが売れないのかな~?とライブ観た後にファンが考えてしまう様が見れる

本丸の裏には出丸が存在する。ここにも二基の櫓とそれを繋ぐ多門が存在した。現在は多門風のトイレになっているが、よく見ると入り口には小さな石段などが今も残っており、まさに多門櫓があったことをイマジンさせる。実はこの先にも曲輪が伸びていて堀切が存在する。本丸の真裏にも家臣の屋敷跡が残っているが、これも十分曲輪である、いかに中世の時代からこの城が機能してきたかがわかる。元は土塁と堀切で作られた城に石垣を組んだ城なのである。ここでも紹介してきた数々の土塁の城も、もし石垣が組まれていたら山城ならば岩村城のようになっていただろう。石垣の時代まで変化することが出来た城と土塁の時代で終わってしまった城があるのである。


堀切は残っているがわかりやすい空堀は実はほとんど城内にない。これはもう防御に十分な場所に建てられているし、すぐ下は全部崖のように急斜面、空堀を作ることもなかったのかもしれない。だがこの城の周りが中世の城のように空堀で囲まれた構造になっていたらこれまさに無敵だったであろう。今も麓には堀らしきものはない。もしかすると埋めたてられたのかもしれないがそういう話は聞いたことがない。非常に掘が少ない城と言える。

城下町にある岩村本通り、ここも是非歩いてもらいたい。江戸時代ですか?ってくらいの風情がある。まさに城下町。城下町も含め岩村城である。この町を、この城を、もっと伝えたい。こういう気持ちを私のファンが持ってくれていたらどんなに……。

是非この夏訪れてみてほしい。「私の夏」にしてほしい。千里姐さんの歌詞をちょっとアレンジすると、き~め~た!岩村の~城にし~よお~!になる。

ああ岩村城、また訪れたい……。



◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
この記事をポスト

この記事の関連情報