【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第43回「東松山城(埼玉県)卓偉が行ったことある回数 3回」
日本の中世の城郭としての最高傑作と言われる城はたくさんあるが、やはり東松山城もまさに最高傑作と言える城だと思う。紹介しないわけにはいかない。ロックの歴史に卓偉を紹介しないわけにはいかないように、だ。
前回の杉山城もそうだが秀吉さんや家康さんが天下を取る前の関東近辺にはたくさんの名城と呼べる城が建てられていた。関東の、埼玉の城を語る上でこの東松山城を打ち出さないわけにはいかない。(関東の城で紹介したい城はまだまだたくさんあります)造りとしては杉山城と同じく非常にコンパクトではあるが、ここで数々の戦いが繰り広げられた歴史を考えると実に防御も固く、いかに攻め落としにくい城だったかがわかる。
今まで訪れる度に、考えられた縄張り、空堀の凄さ、堀切の豪快さに感動しまくりである。この城は本当に好きだ。
築城にはいろんな説がある。このコラムでそういうことを独断ではっきり書いてしまうことも簡単だが、私は敢えて宣言せずに語りたいと思う。何故ならば、それは所詮伝説であるからして、現在の人間がはっきりと語れるものではないと思うからである。綿密な発掘調査が行われ、確実なデータが出たならばそれを記載したいところだが、いろんな説があるとするならばむしろその伝説を自分の中だけでイメージするのがいいと思う、決め込む必要などない、ただ、はっきりとした真実がわからないのに宣言してしまうのは今後の日本の歴史を書き換えてしまうことになる。近年歴史の教科書も事実として伝わっていたことが嘘だったということが沢山判明し訂正されていることが多々ある。これじゃいかん。何度も言うが言ったもん勝ちじゃ困るのだ。自分が勝手に決めた真実を語るより、ここに存在したであろう城のロマンを語らなければ歴史は面白くない。世の中知った気になった奴らがいろいろ適当なことを語り過ぎなのだ、事実を自分の目で確認しない限り発言するのはどうかと思う。「噂を信じちゃいけないよ」と山本リンダさんも連呼されているように真実を知っているのは16ビート感じて歌っている本人だけだ。そして真実に関わった人間だけが知っているのだ。よっしゃ!70歳過ぎたら自伝書いたんぞ!今まで我慢してきたこと、間違って伝わったこと、苦しかったこと、傷ついたこと、すべて真実で書きなぐったるわ!もはや暴露本じゃ!って言いながらその前に死んでまったらおもろいわ!
なので話は戻るが、築城はおそらく1300年代。結構古い、最高だ。いろんな城主がいた中でおそらく上田氏がこの城の拡張、整備をしたのではないかと推測したい。
1601年、江戸幕府が天下を治めた頃、江戸時代が始まったと同時に空城となって誰も住むことがなくなり、そのまま廃城となった。戦国時代の終わりと共に終幕を迎えた城である、なので江戸時代300年の間はまったく機能しないまま土に埋もれた城だったのである。これだけの城だから時代の流行と共に土塁を石垣に組み直すことでもしたらよっぽどの名城になったはずなのに誰もこの城を使おうとしなかったのだ。もちろん幕府に引越しを命じられて城を出なくてはならなかった城主もいる。この辺一体は江戸時代には川越城が機能しており、川越城は平城なので、おそらく平和な戦のない江戸時代が始まったことで、東松山城のような山城に近い平山城などは暮らしづらいこともあっただろうし、メンテナンスも困難。たとえ総石垣に作り直したとしても、それはそれで凄過ぎて幕府の反感を買うことに繋がっただろう。時代の進化によって埋もれていってしまった、そんな城である。まさに「死んだ後に評価が高まる後付け天才のパターン」である。まさに中島卓偉の裏キャッチフレーズだ。もうこれからは「おそらく死んだ後に評価が高まる後付け天才パターン、中島卓偉です」と自己紹介しよう。世の中の偉人は大概このパターンなんだよね!現代の中でリアルに評価されてる人って未来で評価されないんだよね!37歳にもなると自分の慰め方を覚えて困っている。
松山城の何が素晴らしいって空堀のカーブだ。真っすぐなところがない、野球オタクの広沢タダシ君がプライベートで投げる球はシンカー、もしくはツーシームだ。
堀の全部がいろんな方向に曲がっている、日本人がデザインしたっぽくない感じがする、ビートが外国人である。本来日本人ってのはしっかり寸法を計って確実に左右対称に作れる人種である。角張ったものを好む傾向にある、それは日本建築の歴史が証明しているのだが、この松山城の堀や曲輪の形はとにかく曲がりくねっている。まさに、ザ、ローングアーンワイディンロ~ド、ジャッジャッ~!ジャッジャッ~!ジャッ~!くらいくねっている。
意外とあまりこだわらずに作ったのか、攻められない為に確信犯でそう作ったか定かではないが、ここまでのくねり具合はかなり斬新である。
松山城を見学する場合は多分どんな人も吉見百穴の駐車場に車を止め、もしくは駅から百穴のバス停で下車し、国道沿いのいわゆる本曲輪の下から城に登って行く見学の仕方が主だと思うが、これは大きな間違いである。まずこのコースで見学するのをやめてほしい。何故ならばここから登ったらすぐ本曲輪に到達出来るので城の搦手から、いわゆる城の逆から登っているのと同じなのである。裏口入学と同じである。
どう見学すればいいかと言うと、まず吉見百穴の駐車場から城を見て左に国道を歩いて緩やかな坂を登って行ってほしい。そうすると右手にまず小さな看板で東松山城の入り口と書いてある、が!ここからも敢えて入城せず、さらにその角を曲がり城の逆側へ細道を歩いていく。コの字の逆に曲がったら城の裏は武蔵丘短期大学があるがそっち側の民家の横にまた小さく東松山城入り口という看板がある。ここから必ず入城してほしい。推測だが城の外を流れている市野川を天然の堀としている松山城は搦手が市野川にあるので大手は絶対にこの短大の曲輪4と言われてる側にあったはずだ。短大が建てられたことで大手がどこにあったかが完全にわからなくなってしまったが、この武蔵丘短期大学がある場所は城下のいわゆる家臣が住む屋敷、そして外堀の跡や大堀(でかい堀の役目を果たす沼)もあったことから大手門はこの城の敷地内であることがわかっている。現在は城の麓に民家が建てられているので細かくは見学出来ないがこの短大の場所、ここが松山城のキーポイントになる。ここを発掘したら色々出てくると思うのだ。(まあ無理な話なのだが)
短大の敷地内は丘なのにも関わらずちゃんと平たく作られている場所もある。もしかすると私生活はこの平面の曲輪で過ごしており、いざ戦いとなったら城に登るということをいち早くから実行していたのではないだろうか?なので本当の大手の場所はこの大学の何処かにあったと私は推測する。
なので現在はこの短大側の民家の横から曲輪4を目指して入城し、本曲輪に到達していただき市野川側に降りるという道のりをお勧めしたい。こうじゃなきゃ、こう見なきゃ城の良さはまったく伝わらない。沖縄の中城城も城のケツから見学させる道のりになっていていただけないことを思い出した。(ケツは大好物だが)卓偉はライブ、ライブから観ないと意味がないのと同じである。写真だけ見てもあんなに激しいライブをする男に、あれほど才能がある男に、あれほど歌唱力がある男にまず見えない。そのギャップでもう17年も売れない。じゃあ顔をCDジャケットに載せずにリリースするかと試みたが何も変わらない。もうケツの窒息死で殺してほしい。
またまた話は戻るが城は大手から搦手へ見学することを基本としたい。何回か来城する機会があればいろんな搭乗口から入るのも楽しいが最初は必ず大手からでお願いしたい。だが日本の城、変な場所から来城させる城が多いんだよな。そうじゃねえよってことが多々あるので、行きたい城がある場合はどう来城するべきか一度私に連絡してほしい。1回教えるごとに10万円、事務所が6割取って行くので私の手取りは4万、いや税金が更に持って行くので手取りは2万3千くらいだろうか、気持ち多めに包んでくれても構わない。いや~本当に申し訳ないネ!
入城し曲輪4を右手に、まず空堀の滑らかさに感動する。若干土砂で堀が浅くなっているが当時はもっと深かったはずだ、卓偉の詞の意味と同じくらい。城の外に向けて土塁が高く盛られていることにも注目したい。曲輪4から三ノ曲輪に移動するにあたってまず、三ノ曲輪の土塁の高さに圧倒される。今は小さな土橋があって歩けるようになっているが当時はどうだったんだろうか?三ノ曲輪に登り右手に馬出し、目の前が二ノ曲輪がそびえるわけだが、この馬出しも両サイドが堀に囲まれておりはっきり言って本来の馬出しの使い方では機能してなかったと思う。三ノ曲輪と二ノ曲輪を守る為だけに作られた砦と言ったところか、長細い曲輪を奥に進めば太鼓曲輪にも接続される、この辺が防御としてよく考えられている。草や木が生え放題な状態だが、たまに草むらをかき分けるとそこには武蔵丘短期大学の校舎が見える、これがなんともエロい。かき分けた先の短大、かき分けた先が短大、かきむしってもきっとその先は短大、エロ過ぎる。
二ノ曲輪から本曲輪に登る道はどうしても結構急な空堀を上り下りしなくてはならないのだが、当時は土橋、もしくは木橋が架かっていたと思う。というか曲輪と曲輪の先がちょっとだけ出っ張っているところは基本的に橋の跡なのである。雨の日などは土塁が滑って登りづらいので気をつけてほしい。いよいよ本曲輪だが、少しだけ高いところに松山城の石碑が建てれている、ここが物見櫓跡と言われているが、まあいわゆる天守らしき櫓があったんではないだろうか?土台面積もしっかりしているし見晴らしもいい。ここから見える短大がまたエロ過ぎる。チラ見せもほどほどにしてほしい。世の中全部見せるよりちょいちょい見せる方がよっぽどエロい。
本曲輪にはいつ壊されたかわからないが神社の跡があるが、この敷石の跡は松山城の御殿などとはまったく関係ないのであしからず。城跡に神社を建てることがよくある。これを私は好まない。城が廃城になってから建てられたってことは歴史が浅いし後付けだからである。ましてや神社を建てたことによって城の本来の大きさを知ることが出来ないし見学も細かく出来ない。現在東松山城は本曲輪にあった神社が壊されている、どんな理由があったにせよ、歴史の後付けは良くない。武士も築城する時には古墳や神社や寺は絶対に避けて建てていたのだ、歴史を自分の縄張りや私利私欲で書き換えないようにだ。素晴らしいことだと思う。近年、日本の城の中に後付けで建てられた神社を壊す運動があるが私は賛成である。神を否定してるのではなく、後付けでは歴史が浅いし説得力に欠けるってだけである。
本曲輪を見学したら搦手に降りず、反対側の兵糧倉を通り、岩室観音堂の裏を見に行ってほしい。ここはこう見えて石を切った堀切である。もしかしたら天然でこの形をしており堀切の役目を果たしたのかもしれない。初めて来城した時に私は敢えてここを下から登らせてもらった。だがここはトレッキングに自信がないとかなり危ない。が、非常に楽しい。この横は惣曲輪となっており(今は民家の畑になっている)。土砂を運ぶブルドーザーが走った跡がある。この下が最初に車を停めてから歩いてきた道なのだが、私の推測だとこの下の道まで当時は川だったと思う。市野川の水流はこの真下まで来ていたと思うのだ。よってこの観音堂から横に惣曲輪までの道を歩くと堀切がたくさんあることがわかる、要は排水溝の役割を果たしてしたはずだ。一石二鳥、実に理にかなっている。どこから攻めて城を登っても度重なる堀切のおかげで城の中心部まで到達出来ないシステムなのだ。
隣りに吉見百穴があり、城の外側も同じような穴が空いているのでこの辺の石や岩は割と柔らかめだったからこそ削って堀切に出来たんではないだろうか?見た目よりも柔らかい、それは卓偉が喋ってみるとあまりにも礼儀正しく謙虚過ぎて驚かれるのと同じである。
吉見百穴の方が城より歴史が古いが、ここでひとつ面白い伝説が残っているので書いておきたい。
1500年代半ば、武田信玄公がこの城を落とす為に行った方法なのだが、この岩や石が柔らかいことを知った上で、隣りの吉見百穴に陣を張り、ここから地下に穴を掘りまくって、城の真下まで行き、そこで火薬を爆発させて城を破壊しようと計画したそうな。吉見百穴の中に隣りの松山城まで掘ったであろう長い穴があるとの噂もある。吉見百穴も全部の穴を見学出来るわけじゃなにのでなんとも言えないが実に天真爛漫な信玄公の発想らしい。あくまで伝説だが信玄公なら絶対にやりそうなことだと思う。この作戦は「もぐら戦法」と呼ばれ言い伝えられている。実にチャーミングだ。でもきっと信玄公が「もぐら戦法じゃ!」と言ったわけはないと思うが。
去年の末にtvkのMUTOMAの城ロケで訪れた時は当日雨が降り地盤がツルツルで登るのが大変だった。こんなシュールな番組コーナーが成立するのかと客観的に観ても面白い。もうここまで来たらロックじゃなく城で売れてもいいんじゃないだろうか、むしろ事務所は「卓偉、もうROCKはいいから城でなんとかしろ」と言われているくらいだ、おっと駄洒落か?と思ってしまいそうなこの流れ、嫌いじゃないぜ。
最後に隣りの吉見百穴、しかしこの読み方が半端なくエロい。なんてたって「よしみひゃっけつ」だ!乳より断然ケツ好きな私としてはこの読み方にクラクラ来る。駅から来るバス停の名前も「百穴」ひゃっけつだ!フラフラする。ケツ好きから考えてもケツが百もあったらたまらない。世の中おっぱいパブはあれだけあるのに何故ケツパブは一軒もないのだろうか?ケツファンはそこら中にいるというのに、私の周りにはケツファンしかいないのに。もうこうなったら売れて金が出来たらケツパブをオープンだ。店の名前は「BIG PEACH!!!!」でいいではないか、会員カードは「お尻合い」いや「お尻愛」でもいい。いやむしろそっちの方がグッと来る。店のテーブルにはマッチやライターをおいておき、そこに必ず「ありがとう!いい~お尻です!」のキャッチフレーズを。
こうなれば顔が見えなくてもケツを優先に女の子をやとえばいいので年齢は関係ない、これは女性も働きやすい。ショータイムでケツだけ向けて登場するだけでいいんだからこれはいい!ケツがでかい女性集まれ!客にもとにかくケツだけを楽しんでほしいとアナウンスする。今これを読んでくれている経営者の方々、是非ケツパブ検討してください!斬新且つ待ってました感半端ないと思います!そんな時代が来たら平和だ、ネ!
いい城の話書いてたつもりが単なるケツの話になっちまったじゃねえか!
ああ、ケツを拝みたい……。じゃなくて、
ああ、東松山城、また訪れたい……。
◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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