【連載】Large House Satisfactionコラム「夢の中で絶望の淵」Vol.18「S田君の文具」
例によって俺はまた、本棚代わりにしている小さな押入れから一冊の本を抜き出した。
抜き出したというよりは探し出したという方が適切なほど押入れの内は混沌としており、しかも碌に埃もとらず風も通さないものだから空気が淀んで腐っている。
誰かに掃除して欲しいな、と思った。
なぜなら己で掃除するのはかなりめんどくさいからである。
千円くらいなら払ってもいいかな、とも思った。
でも実際、そんなら私がやりましょうと知らない人に来られたら、やっぱり千円が惜しくなって、俺は断るだろう。
は?あなた誰ですか?帰ってください。と言うだろう。
知らない人は怖いし、その千円で二杯がとこ酒が呑める。煙草だったら二箱買える。
かと言って知っている人が来ても、俺は断るだろう。
俺の知り合いで数少ない真面目な人は、真面目ゆえに立派であり、立派がゆえ社会のために働いたりなんらかの活動をしたりしているので、他家の押入れを掃除するほど暇ではないはずだからだ。
でも立派な人は心根が優しくできているので、忙しいのをおして掃除しに来てくれるかもしれない。
しかしそんな聖人に押入れの掃除をさすほど俺は図々しくないぜ。
そして切ないことに、俺の知っている人の大体は人間のクズだ。
クズに千円も払うほど、俺はお人好しじゃないんだよ。
クズならクズらしく無償で働くがいい。
大体貴様らは、と説教を垂れるのは長くなるし本筋とずれるのでここらでよそう。
クズの俺がむさい押入れから苦労して探し出したのは吉行淳之介の「目玉」という短編集である。
手前勝手な表現だが所謂「出汁のきいたうす味」の本であり、シンプルながら奥深い味わいで、何度読んでも飽きることはない。
表題作「目玉」は、吉行が白内障におかされた己の眼のことを軽妙に語る話である。
白内障という重病罹りつつ、どこか面白がりながら客観的にその病を描写している。
なるほどさすが粋人で通っていただけある。イカす。クール。初めてこの短編を読んだとき、俺はそんな風に思った。
久しぶりに手にとったその本の表紙は破れかけており、内も薄茶色に変色していたがそれがまた飄然とした内容とあいまって、俺の心をいい感じにした。
そういうアンティークな感じは、俺は結構いいな。と常々思っている。心中が洒落た雰囲気になり、生きるのが少し楽しくなるからである。
俺は電車に揺られながら、数年ぶりにこの短編集を読み始めた。
するとひとつ目の短編に、吉行淳之介が馴染みの文具店で新しいメモ帳を買うという一節があった。
手帳ではなくメモ帳。
ふと思いついたり、思い出したりしたことをサッと書き残すためだけの、おそらくカレンダーや路線図などの余計なもののない、シンプルなメモ帳である。
ノートではなく、きちっと黒い革のカバーがかかったメモ帳である。
吉行はつらつらと日頃の執筆の種になる言葉をそのメモ帳に書き込んでいく。
そして過去に蒔いていた言葉の種から新たな話の花を咲かせるのである。
俺は心の内で、おお…。そういうの、ええやんけじゃん…とっても。と、町田弁で呟いた。
影響のされやすい日本人の私は早速、近所の文具店へメモ帳を買いに行った。
俺も黒い革のカバーがかかったメモ帳が欲しい。
そこへ徒然に思ったことを徒然に書いていきたい。
その一念で文具店をくるくる探していて、ふと思ったのは言葉を書く道具のことである。
世の中には様々な言葉を書く道具が存在している。
毛筆、鉛筆、万年筆や、シャープペンシル、ボールペンシルなど、多種多様である。
俺はどれにしようか悩んだ。
鉛筆は鉛筆で先端が丸まったら削らなければならないし、毛筆ではいちいち墨を擦らなければならない手間があるうえ出先でそんなことはできないし、それは心の底から超めんどくさいと思う。却下。
そして万年筆は高価だ。
安いものもあるだろうが、見栄の強い愚かな俺は、持つなら高級な万年筆がよろしいな。と鼻をツンと上向きにして思っている。
しかし貧乏でそんな高級なものは買えないのでこれも駄目である。
拙い俺の頭脳には残すところシャープペンシルとボールペンシルしかない。
シャープペンシルの長所は、書き損じても「消しゴム」という白くて硬い小さなハンペンみたいなものを用いれば、ただちにこれを消去して新たに正確な文字を記入することができるというところである。
しかしそうなるとシャープペンシルの他に小さな硬いハンペンも買わなければならなくなる。
それはとても業腹なことだ。
持ち物が増えて煩わしい。
シャープペンシルの逆先端には小さな細い立方体のハンペンが備え付けられているのは常で、一見便利がよさげにみえるが、あれを使ったときのハンペン自体と腕筋の消耗は凄まじいものがある。
しかも全然消えないし。
そのうえ磨り減っていくと外せなくなってシャープペンシルの芯が追加出来なくなる。
するとどうなるかというと、芯が顔を出す先端の方から細くて脆い芯を「ひょっとこ」の様な顔をしながら入れなければならなくなる。
しかも途中で芯がポキリと折れたときなどは、月に向かって叫びたくなる。
そんな風にイラついたときは先日公開になった我々の新曲「トワイライト」のミュージック・ビデオを観て平静を保つのが最善の策である。真似していいよ。
まあ昨今のシャープペンシル事情は存ぜぬので、心悪くなったシャープペンシルファンのたちには申し訳ないが、はっきり言わしてもらう。
俺は「ひょっとこ」にはなりたくありません。
たとい人間のクズであろうとも、元々が塩と酢を混ぜたような奇妙な顔なのに、さらに「ひょっとこ」の如く阿呆な顔をしたら通りすがりの人に腹を殴られたりするだろうから、それはしたくありません。
だからシャープペンシルは却下である。
残ったのはボールペンシルである。
ボールペンシルの良きところ、それは一言でいうと「潔さ」である。
ボールペンシルで紙に書いた文字はいかなる力が作用しようとなかなか消えるものではない。
それゆえ決死の覚悟、背水の陣で記入に臨まなければならない。
そんな決死な感じで書いた言葉には魂が宿るはずである。
俺はそんなところがかっけーと思うんですよね。
最近「消えるボールペン」などという不埒な代物があるそうだが俺に謂わせれば、そんなものを使うやつぁとんだオカマちゃんだよ。男根の腐ったような男だよ。絶対友達になれないっすわ。である。
そんな、魔法みたいな力で手に入れた平和なんて、幻想なんだよ。
平和とは己の力で勝ち取るものなんだよ。
そういうわけで俺はよさげな「消えない」ボールペンシルを買おうと思い、売り場へ行って物色していると、ふと、中学時代の友人にまつわることを思い出した。
S田君は孤高の存在だった。
ほかの友人たちが学ランの第一ボタンを外して粋がっているなかで独り、詰襟のフックまできっちりしめ、朝早く登校し、教室で静かに読書をしていた。
こんな風に書いてしまうとS田君はどこにでもいる真面目な学生のように思われるが、彼は馬鹿の申し子のような友人たちと一緒に、いつもくだらない悪戯に興じていた。
独特な言葉のセンスや行動が190センチ近くある長身と相まって、一種異様な雰囲気を醸し出しており、むしろ友人たちのなかでは少し畏怖されていた。
そんなS田君の文房具には、もちろん独自のセンスが光っていた。
まず一般的な中学生が使うような筆記具などには目もくれず、休日独りで自由ケ丘の小洒落た文具店へ赴き、小洒落た筆入れや、シャープペンシル、三色ボールペンシル、MONO製ではない小さな硬いハンペンなどを揃えていた。
特に彼の使うシャープペンシルはいつもイカしていた。
なかでも愛用していたのは白い細身のボディに赤いラインがいい感じに入ったシャープペンシルで、ほかの生徒が使う野暮ったいそれとは一線を画していた。
俺はそのシャープペンシルを見たときなぜか、
「この人には、一生かかっても敵わない」
一体何が敵わないのかわからないが、そう思った。
俺はS田君の使っているクールなシャープペンシルが欲しくなって、小洒落た文具店の場所を訊き、ある休日に訪れた。
店は半地下のような場所にあって、まず半地下っていうのが小洒落ているよね。と思いながら中学生の俺はのそのそと文具店へ入って行った。
そこは小さなお洒落の国の、お洒落な文具店であった。
小僧の俺は動揺した。
こんな洒落た文具店は初めてだったからである。
そして平静を保つために当時流行っていたMDウォークマンにミッシェルガンエレファントのMDを挿入し、イヤフォンを耳につけて爆音で聴きながら店内をうろうろした。
静かな店内であった。
木目の鮮やかな棚には数々の洒落た文房具が配置されていた。
心地の良い重さのあるコンパスは、銀製でしっとりとした手触りだった。
透き通る水色の定規は、流れるような線で描かれた数字が刻まれていた。
他にも俺は、様々な美しい文具に目を奪われた。
薄く綺麗な木の箱に入った24色の色鉛筆、黒と白がバランス良く配置されたモザイク模様の表紙のノート、茶色の革をその細身にまとった柔らかい手触りの様々なペンシルなど、どれも中学生のお子様が持てる物ではなく、俺はドギマギしてそれらを眺めていた。
S田君はこんな洒落た文具店へ来て、平然としていられたのだろうか。
俺のようにドギマギしなかったのだろうか。
しなかっただろう。
それでこそS田君である。
その店でS田君と同じシャープペンシルを探したが、見当たらなかった。
しかしその時、俺は俺で気に入ったシャープペンシルを買えばいいじゃないかと思った。
そして俺は己の気に入るものを探したが、その店にはなかった。
そんなことを思い出して、こんな風にして人は己を解って、己を創っていくのだろうかと、俺はどこか泰然とした気持ちで思った。
俺は泰然としながら近所のバーへ酒を呑みに行った。
泰然としながら焼酎をたくさん呑んだ。
気づくと俺は黒い合皮のカバーのかかったメモ帳の上に突っ伏して泥眠していた。
右手には安物の黒いボールペンシルが握られていた。
メモ帳には「S田君の文具」とだけ書いてあった。
合掌。
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