【インタビュー】Kαin、2daysライブを前に過去~未来を語る「究極の真理とは人間は生まれた瞬間に死が決まっていること」
Kαinが5月3日および4日、Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASUREにて<Kαin 2days GIGS『Lasting【world】memories』>と題したライブを開催する。2007年7月の結成以降、不定期ながらも継続的に続けてきた彼らのライブは、メンバー自身がデザインしたステージセットやVJ的演出を用いたあまりにもオリジナリティの高いもの。その独創的な世界観を完璧なまでに描き切るがゆえ、これまでほぼワンマンで開催されてきた。もちろん開催される<Kαin 2days GIGS『Lasting【world】memories』>も、一切の妥協を許さない彼らのサウンド&ヴィジョンが提示されるはずだ。このライブ開催を前にして、YUKIYAにKαinというバンドの現在・過去・未来を訊いたロングインタビューをお届けしたい。20年の長きにわたってシーンを牽引してきた彼だけに、その話はヴィジュアルシーンや音楽業界の今後にまでおよんだ。
◆YUKIYA 拡大画像
■永遠ではなく、むしろ終わりが近づいていると感じたときに
■本当に自分が好きなバンド/音楽性に絞ってやるべきだろうと
──D≒SIREで活動開始されてから20年。その間、レーベルも設立されたりと確固たる信念を持って活動されているYUKIYAさんですが、そもそも音楽を始めた当初に目指していたものは何だったんでしょう?
YUKIYA:音楽に関して言うと、実はそんなに目的意識があって始めたわけじゃないんですよね。そもそもは高校時代に、先輩に“バンドやるから、お前はボーカルやれ”と言われたのがキッカケで。僕、大阪のミナミ出身なんですけど、当時あのあたりは上下関係が厳しくて、なおかつ目立ちたがり屋のヤツは“生意気だ”と目をつけられる風潮があったから、ボーカルなんて誰もやりたがらなかったんですよ。もう、100%押し付けられただけ。
──歌が上手いからボーカルに抜擢されたとかではなく?
YUKIYA:音楽は好きで、当時流行りかけていたバンドで言うとBOφWYとかU2とか聴いてはいましたけど、あくまでリスナーでした。ボーカルにされたのは、恐らく顔が男前だったからなだけだと思います。自分で言うのもなんですが……とにかく可愛かったんで。10代のころの僕は(笑)。
──ただ、そんな自主的とは言えない始まりだったのに、その後もずっと音楽活動を続けてこられましたよね。
YUKIYA:それは……単純にお金が貰えたんで(笑)。音楽を始めてから僕、割と苦労してないんですよ。人に認められず“どうしたらいいんだろう?”って悩む時期もなかったんで、そんなに考えもせずにここまで来てしまった。レーベルを立ち上げたのも、ものすごく僕が人に従えない性格だからであって。D≒SIREが、メジャーレコード会社との契約が決まって上京したものの、大きな組織の中で翻弄されて割と変な終わり方をしたから、そこで大人への不信感っていうのが生まれてしまっていたんです。もう15年くらい経つのに、いまだに当時のメンバー同士で“なんで俺たち解散したんだろう?”って話すくらいですからね。つまり、僕にとっては自分でレーベルを運営するほうが、組織に所属するよりも楽だっただけの話で、今の状態はその時々の選択の結果でしかないんです。
──ちなみに、そのころ歌っていた楽曲/音楽性/世界観も、今とさほど変わりないものでしょうか?
YUKIYA:8ビートの割と歌メロがハッキリした楽曲という点では、恐らく20年間そんなに変わってないんですけど、意識は大きく変わりました。僕、大きく分けると今までに3つバンドをやっていて、1つ目のD≒SIREは先輩に誘われて始めたバンドの直後に始めたバンドだったから、まだ特に表現したいものがあったわけでもなく、ただ自分の内面だとか心象風景みたいなものを描いているだけだったんです。2つ目のJILSも始めた当初は、それまで所属してたレコード会社やマネジメントオフィスに対する反抗心みたいなものが原動力で、“D≒SIREより人気を出したい、動員を増やしたい”みたいなことしか考えてなかった。それが割とトントン拍子に動員が増えて、実券で2千人を超えたくらいで……すごく壁を感じたんですよ。
──壁?
YUKIYA:結局、個人のレーベルだと社会的信用が無いので、お金をどれだけ持っていても借りられないホールがあったり、消防法の申請だとか保険だとか、クリアできない問題が出てくるんです。で、同じころ大手のマネジメントオフィスから、契約の話を持ちかけられたりして……これ以上の規模になるためには大人の力を借りないとダメなんだという現実に絶望したんですよ。特に当時は2000年代の初頭で、まだインターネットも普及していなかったから、それ以上の人数に自分の作っているものを届けるにはマスのメディアに乗るしかなかった。もう、実力だけではどうにもならない部分もあるんだってことを思い知ったときに、売上だとか動員だとかに力点を置いて活動しても意味がないと悟ったんです。そこに到って、ようやく“自分が何を歌うべきなのか? どんなものを残すのが自分にとって大事なのか?”を考えるようになったんですよ。それ以降は歌っている内容も、一貫して変わっていないと思います。
──YUKIYAさんの曲を聴かせていただくと、とにかく消えゆくものへの愛しさみたいなものを痛烈に感じるんですが、では、何故そこに行き着いたんでしょう?
YUKIYA:そんな紆余曲折を経て、やっぱり真理を歌いたいと思ったんです。じゃあ、究極の真理は何かというと、人間は生まれた瞬間に死ぬことが決まっているということなんですよね。人類平等と言っても、皆、生まれも身体の強さもまちまちなわけで、まったく平等なんかじゃない。その中で唯一の共通点が“死”というゴールであって、自分の想いを伝えるときに、より多くの人の共通項を選択するのは、僕の中では普通のことなんです。そして必ず終わりを迎えるのは、人間だけでなくバンドだって同じ。
──なるほど。しかし、歌っていることが変わらないとなると、何故あえてJILSを終わらせ、Kαinという3つ目のバンドを始動させたかが疑問になってくるんですが。
YUKIYA:いくつかキッカケがあって、一つは2006年の10月に、僕がポリープの手術をしたんですね。それで1ヵ月半くらい全然歌えなかったとき、不安に苛まれている自分にすごく驚いたんです。始まりが始まりなんで、自分はボーカルに執着していないと思っていたし、20代のころから人に曲を書いてプロデューサー的な仕事もやっていたから、そっちのほうが儲かるなら歌なんていつでもやめてやる!くらいに考えていたはずなのに。さらに、直後の11月にレーベルの10周年記念として、D≒SIREとJILSの初期と後期の3マンっていう、実質全部YUKIYA、みたいなイベントをやったんですね。そこで昔の仲間とか後輩とかが集まってくれて、一つ区切りを大きく感じたというのと。年齢的な限界みたいなことも考え始めるようになって……喉の手術のこともあってか、いつまで自分のイメージしている通りに身体が動いて、声が出せるんだろう?という考えが頭を過ぎったんです。それは永遠ではなく、むしろ終わりが近づいているんじゃないかと感じたときに……今のうちに原点に戻って本来、人生で最初にやるべきだったバンドを、本当に自分が好きなバンド/音楽性に絞ってやるべきだろうと。そうでないと、きっと後悔するなと思ったんです。
──つまり、KαinというバンドはYUKIYAさんが10代のころから音楽に対して自発的であったなら、最初に始めていたであろうバンドということ?
YUKIYA:そうですね。逆にJILSは途中で意識の変革もありつつ、模索しながらやってきたバンドだったので、楽曲や世界観の幅が広がりすぎてしまっていたんです。僕自身、ノーメイクでラフな衣裳で歌ってたときもありましたし、それは今考えると“ブレた”と言われても仕方ない。結局、何でも呑み込めるバンドになりすぎて、自分の体力的にもその幅を網羅するのが難しくなってきたんですよね。それを2006年末に痛感したところ、年明けにJILSで出したシングルがインディーズチャートで1位になって。嬉しいけれど、自分は1993年頃からずっとそのへんのポジション……マスに知られているわけではなく、でも、インディーズならトップの方で……という場所にいたので、“もう、いいか”と思ったんです。で、メンバーにすぐ連絡して、8年続いたバンドなのに解散ツアーをするわけでもなく、解散アルバムを出すわけでもなく、2月に発表して5月には解散してしまいましたね。
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