【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第14回「松阪城(三重県) 卓偉が行ったことある回数 2回」

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織田信長の安土城築城に関わった蒲生氏郷が建てた名城である。
蒲生氏郷は築城の名手と言われている。
戦国時代の武将の中には戦が得意とされる武将と、こういった築城が得意とされる武将が存在する。
ミュージシャンにも自分で書いている詞にも拘わらず自分の詞が覚えられないという卓偉のようなミュージシャンが存在する。

築城は1588年、蒲生氏郷の時代には城は完成せず、古田勝重の時代に今の松阪城がほぼ完成した。1600年代に台風で天守が破損、以後天守は再建されず明治維新を迎えている。3層5階の立派な天守だったそうだがデータははっきり残ってはいない。1980年代に天守を再建との声が松阪市民から上がったらしいが反対派の意見が可決、完全復元も出来るわけないのに復興天守や模擬天守など再建しても意味がないと判断。素晴らしい!天守再建に反対した側の人達に拍手を送りたい。そうなのだ、街のシンボルが欲しいというだけの再建なんてFUCK OFFなのだ。

今のままでいい。
だからこそ夢がある。
想像をかき立てられる城、それが城マニアの一番好む城、城跡なのである。
夢を見てる奴らに贈るぜ!ドリーミン!!!!!!!!なわけである。

初めて松阪城に訪れたのは1987年の小学三年生の頃だったと思う、この年にZIGGYメジャーデビュー!BOOWYもまだギリギリ健在。中島卓偉も身体中の毛が生え揃っていない淡い時期だった。

その時も松阪城の石垣の高さや素晴らしさ、城の作りなどを見学して感動した。若干石垣に痛みや崩れがあったのを覚えていたが、翌年の1988年から(BOOWY解散、ZIGGYはGLORIA収録の2nd HOT LIPSリリース)石垣の修復工事に入っており、完成したのは2003年(ようやく卓偉も身体の全部の毛が生え揃った頃である)約16年間もの歳月をかけての石垣修復、総事業費はなんと11億円!!!!!!とのこと。つんくさんが普段財布に入れてる額とほぼ同じくらいである。

二度目に訪れたのは今年2013年の7月初頭、三重県松阪でのワンマンライブが決まり松阪城を観光した。石垣は見事に修復されており、とてもいい時期に来れた気がした。そう、私はツアー中に各地の城巡りをするのが楽しみなのである。

まず表門跡を通過する前に松阪城跡の石碑の前で記念撮影。ここにそびえる二の丸の高石垣にこの時点で感動してもらえるはずだ。車で来たならば、まず二の丸石垣を眺めながら表門を正面に左へ、城をまず1周することをお勧めしたい。

1周したら松阪市民病院の斜向いにある駐車場に車を停めて改めて表門へ。個人的にはこの市民病院前の石垣が草や茂みで隠れてしまっているので、是非整備してもらいたいのである。街の人もここに素晴らしい石垣が隠れていることを知らないと思うのだ。中島卓偉が才能に溢れたロッカーだということを知らないのと同じなのだ。単なる小さな崖、土が盛ってあるだけの壁、に見えてしまっているのが本当に勿体ない。

ファンが卓偉の才能を世間に伝えてくれないのと同じくらいの勿体なさである。

なんならこの茂みのメンテナンス、私がやってもいい。高い脚立と、でかいニッパーと、ゴミ袋があれば10日くらいで出来るだろう。城の為なら、石垣の為ならギャラなどいらない。いや、交通費とホテル代と松阪牛食べ放題くらいはお願いしたい。もしくは松阪嬢食べ放題でも構わない。

殿町の交差点から城の正面入り口が見え始めた時、どうしても正面右側の石垣が草や茂みに隠れているのがインパクトに欠けるのだ。素晴らしい石垣なだけにそこも見せていきたいと思うわけである。

表門に話を戻そう。ここを通過すると右と左と進行方向が二つ存在する。どちらから行っても本丸に到達出来るが、ジョージ・マイケルに行くか、アンドリュー・リッジリーに行くか、迷うわけである。チャゲに行くか、飛鳥に行くか。氷室に行くか布袋に行くか迷うわけである。

ここは城マニア、どの道をどう通って本丸を目指すか、これがかなりポイントである。

城にはいくつもの登り口と出口があるのである。なので見学に訪れた際は左側から見てもらうことをお勧めしたい(それはまさにアンドリュー&チャゲ&氷室!)。帰りに右側から戻ってこればナイス見学ジョージ&飛鳥&布袋である。

二の丸と本丸の作りを見るとわかるが、建物のコーナーには必ず櫓が存在し、それを多聞で全部繋いでいたことがわかる。塀で繋ぐのではなく多聞櫓としてすべての櫓から櫓を連結していたわけである。これも軍事に備えた作り、まだ江戸幕府が政権を握る前に建てられた城だけあってその辺の攻めな感じがビンビン伝わってくる。もちろん守りを固める為に作られているわけだが江戸幕府以降の城は守りの配慮においても攻めを感じる城というのは少ない。

本丸もド真ん中に天守台、その天守を隣にある敵見櫓から斜向いにある金の間櫓が多聞櫓で連結している。注目したいのは天守台である。本丸内側の階段入り口と本丸外側、きたい丸側の階段入り口がある。きたい丸は本丸より一段下がった場所にあるので登り口の階段はいくらか高さがある。

この天守台がどう見ても不等辺四角形なのである。本丸に到達するまでの他の場所の石垣は見事なまでに四角く作られておりその細かさのディティールも半端ないのにもかかわらず、何故天守が不等辺なのであろうか。

私個人の考え方ではあるが、蒲生氏郷、安土城の築城に貢献している事実。安土城天守台こそ不等辺六角形、信長の城作りに影響を受け、蒲生氏郷も自分の城にそういったディティールを施したのではないかと推測する。本丸の作りが実に安土城と似ている。天守に二つの出入り口があることもそうだ。先程も話したように江戸幕府以前の天守は出入り口が2つあるケースが多く、以降の天守は1つしかない場合がほとんどだ。さぞかし素晴らしい天守がそびえていたであろう。天守台から望む松阪の街は今でもそこまで高い建物がないので眺めも最高だ。堀は埋め立てられてしまったが城下町の作りも素晴らしい。

城として相当レベルの高い城だ。実に考えられて作られている。だが、そのディティールが細か過ぎないとこが素敵だ。私が苦手とする速弾きギタリストではなくチョーキングで色気と雰囲気を出せるギタリスト的と言える。城マニアとして小高い丘に建てられた平山城が大好物である。松阪城は理想的な平山城と言える。

もっとも蒲生氏郷は松阪城の前に伊勢湾に面した海寄りにある松ヶ島城を居城としていた。そこには5層のこれまた素晴らしい天守がそびえていたらしいが、城下町が今ひとつ発展に欠けるということで今の松阪に城を移した。そこで敢えて3層の天守、それはきっと本丸からの松阪城下の眺めの良さを目の当たりにし、3層の天守で十分ではないかと余裕を持った判断だったのではないかと私は推測する。もちろん古田氏の時代に松阪城は完成するので蒲生氏郷の頃はまだ天守が完成していなかったとも言えるが、天守台の大きさを見ると5層では狭い面積な気がする。それらを想像することが楽しいわけだ。

城マニアが見てうなる城、とても魅力的な城、松阪城である。ぶっちゃけ肉はほとんど食べない卓偉であるが松阪牛は食べれる、美味すぎる。松阪の街には回転寿司屋ならぬ、回転焼肉屋があり、それに度肝を抜かれたことは言うまでもない。ピストルズの二度目の再結成のサマソニライブを見たときのスティーヴ・ジョーンズの(あんたシチリアのマフィアのボスか!というくらいの)太り具合と同じくらいの度肝であった。

そう言えば松阪ライブの楽屋に届けられた地元の方の手紙にこう書かれてあった。

「卓偉さん、松阪牛は食べられました?でも私たち地元の人間は松阪牛なんてほとんど食べないんですよね、スーパーでも売ってはいますが高いし、お中元やお歳暮で贈るにしても高いし…」

それはまさしく福岡出身の私が地元にいる時にほとんど明太子を食わなかったのと同じな感覚ではないか~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!

松阪城、また訪れたい。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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