【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第9回「肥前名護屋城(佐賀県) 卓偉が行ったことある回数2回」

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ずばり豊臣秀吉の城である。

秀吉の居城と言えば歴史好きであれば誰も大阪城と応えるであろうが、ここではっきり提示しておきたい。

それは間違いである。

いや、まてぃがいである。

正しくはマティガイ、である。

確かに大阪城を建てたのは豊臣秀吉であるが、現在の大阪城は徳川家康が天下統一後に新たに立て替えた大阪城であり、実は秀吉時代の大阪城の面影はほとんど残っていない。家康は石垣の高さを上げ、堀の幅を広げ、天守の位置を移し、ほとんどの建物を新たに造り直したのである。

江戸時代、大阪城は徳川幕府の物であり、もはや豊臣の物ではなかったのに一体いつから秀吉の大阪城と言われるようになったのだろうか?ちゃんとした歴史を愛す人間として、この歴史の伝え方の間違いを声を大にしてワンワードでおもくそ叫びたい。

ろくなもんじゃねええええええええええ!!!!!!!!!PPP~PPP~PPP~PPP~
(カタカナで歌うかアルファベットで歌うかはあなたのセンスにお任せする)

では秀吉の城として残っている城とは?それこそが佐賀県にある肥前名護屋城である。

尾張愛知にある名古屋城ではない。だが佐賀のこの場所に同じ「なごや」という呼び名があり、秀吉は自分の出身地と同じ呼び名を気に入り、字を一文字変えて名護屋と記したという説がある。

BEETLEはカブトムシだがBEATの利いたロックをやるんだからBEATLESと読ませようじゃねえか。by ジョンレノン。BOΦWYと書いてブーウイーとは読まず、ボウイと読ませようじゃねえか。by 布袋寅泰。という話とはまったく遠い話である。

1591年築城。1587年に天下統一した秀吉は日本だけに留まらず世界に領地を広めることを計画し、朝鮮に攻め入ることを決める。その根城として九州は佐賀県の日本海を見渡せるこの丘に加藤清正と寺沢広高を中心に築城を銘じ、九州の大名総動員し、わずか8ヵ月で大城郭は完成する。言わば秀吉のバブルである。これこそが歴史の授業でも出て来る秀吉の「朝鮮出兵」である。

日本全国から武将、大名を佐賀に呼び、城の周りにはたくさんの陣が敷かれた。120ヵ所近くの陣があったとされる。ここから約20万の兵が海を渡り、対馬を経由し朝鮮に攻め入っている。その間の日本の政治経済はこの肥前名護屋城が中心となっていたのだ。城下町も栄え、最盛期には人口10万人の街として繁栄した。今では考えられない状況である。そのまま栄え続ければ九州一の街になったことは言わずもがなである。

第3回の仙台青葉城でも書いたが、伊達政宗は自分の兵をこんなわけのわからん秀吉のバブル戦で死なすわけにはどうしてもいかず、派手好きの秀吉のこと、とにかく派手な格好、鎧も新たに作り大名行列を行い、それはそれは秀吉に喜ばれ、側近を頼まれ戦をせずに仙台に帰れたという話が残っている(その辺の話は第3回の仙台青葉城を読んでみよう!)。

肥前名護屋城は間違いなく当時の大城郭であった。本丸、二の丸、三の丸、山里曲輪からなる平山城で、本丸には5重7階の天守閣が聳えていたという。肥前名護屋城絵図も残っている。海から見ても陸側から見てもその威圧感と言ったら半端なかったであろう。天守から見渡す景色も相当な眺めだったはずだ。

だがこの城にいる間に病に犯された秀吉はたった1年2ヵ月の滞在で大阪に戻っており、1598年に死去。秀吉の死により朝鮮出兵は終わりを告げ、兵も大名も退散。城も役割を終える。すぐさま徳川軍と豊臣軍とで関ヶ原の戦いになり、徳川の勝利により一国一城例が行われ、この界隈を治めていた寺沢広高が1602年にこの城をお古でもらうかと思いきや、

「いやっ別にいらないっす。もうちょい先の唐津に城建てるんで、でも石垣とか?木材とか?わだかまりとか?その辺のいらないやつだけもらってっていいすかね?」

と言ったかどうかはわからないが、事実、唐津城を築城するにあたってリサイクルしたのである。あまり知られていないが全国にも城築城時期にリサイクルして建てられた城は数多く存在する。

ほとんど知られていないがデビュー14年。一度も売れることなくひっそりと歌い続けている中島卓偉というパンクロッカーも存在する。彼は2013年10月にデビュー15周年であり、その15周年に向けたアルバムを今制作中とのことである。

音楽の才能もさることながら、文才もあり、いつかこのコラムを一冊の本にして発売しようじゃないかと事務所も地味に動こうとしている。これだけ城好きでこれだけ城に詳しいんだから城でライブしたらいいんじゃねえの?ということでイベンターも地味に動こうとしている。

城や歴史にまったく興味ない卓偉のファンは、そんな城のコラム出されてもねえ…そんな城でライブやられてもねえ…と言いながら地味にマニーをコングラッチレイションしてくれるのでとても素敵な性格のいい素晴らしい感謝すべき人達である。

堀内ベーヤン孝雄さん風に言わせていただくと

「っああありがとうウウウウウウウウっっっっ!!!!!!っさんきゅ~~~~~!!!!!」

である。しみじみ。

また伊達政宗の話に戻るがこのリサイクルのタイミングで肥前名護屋城の壮大な大手門を自身の仙台城に移築したという話である。

城の規模の大きさを垣間見るなら是非とも城の入り口付近にある佐賀県名護屋城博物館を見学することをお勧めしたい。しかもこの博物館、物凄い展示物の数にも関わらず、入館はただときている。素晴らしい。是非とも城の模型をご覧になっていただきたい。

始めて行ったのは小学2年の時だった。当時はまだ発掘調査がある前で、はっきり言って廃墟だった。だがその壊れ方、崩れ方が、すべてのディティールがめっちゃくちゃかっこ良かった。当時は博物館もなかったと記憶してる。整備されてない城跡、う~んたまらない。どこまでも遠くまで石垣が続いており、城の外を車で走っても急に立派な石垣が現れたりする。本丸も今ほど整備されてなく、天守台も下を覗き込めば転げ落ちるんじゃないかというくらいの崩れ方だった。でもそこに想像する奥深さとロマンがあるのである。

秀吉の呼びかけで当時の戦国大名がほぼここに集結しているのだから。考えられない。そんな場所はこの肥前名護屋城しかないのである。豊臣秀吉も、徳川家康も、伊達政宗も、石田三成も、毛利輝元も、サイトウダイスケも(誰?)この城に集結していただなんて!人々が去ってしまった寂しさ、わびしさ、切なさがまだここに残っていると私は思うのである。

福岡方面から来ても長崎方面から来ても熊本方面から来てもこんな山奥に城なんてあんの?と思うだろう。確かに現在の名護屋城を見学してもここがかつて日本の中心だったと、10万人もの城下町として栄えていたと思うのはなかなか難しいとは思う。だがそれがロマンなのである。吐き気がするほど~~~~ロマ~ンチックだぜええええ!なわけである。

日本全国を車で旅行し、たくさんの城に連れて行ってくれた亡き父も、この肥前名護屋城が一番良かった、一番好きだったと言っていた。そう、肥前名護屋城は、夢の跡なのでる。夢の跡という言葉と表現が最も似合う城だと言いたい。

そしてこの城こそが、まぎれもなく秀吉の城なのである。大阪城ではない、肥前名護屋城こそが関白豊臣秀吉の城なのである。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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