【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第2回「萩城(山口県) 卓偉が行ったことある回数、2回」

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城自体の造りが非常に斬新である。
というのは本来、城の天守閣というのは平城なら城の中心部に位置する。山城や平山城ならその頂上に天守が置かれるのがお約束だが、この萩城は山の麓に天守が構築されている(いた)のだ。城主は毛利輝元。萩の町を一望出来る日本海に突き出た指月山に築城したのが1604年である。

初めて訪れた小学生の低学年の時、この城の斬新な創りにTHE WHOを聴いた時と同じような衝撃を受けた。
「なんで天守が山のてっぺんやなくて山の麓にあるっちゃろうかいねえ?」
聞くところによると、
「どうせ山のてっぺんまで登れば敵が来たかどうかなんて見えるんだからよ~~頂上に天守なんていらなくね?それよりもよ~~山の麓にいる時に敵が来たかどうか見張りするためによ~~天守が下にあったほうがよくね?いちいち指月山登るのめんどくさくね?だったら山の麓に天守建てちまえばいいんじゃね?」

これは嘘のような本当の話である。日本全国の城で山の麓に天守があるのは萩城だけなのである。

かつてそこには5層の美しい天守がそびえ立っていた。だが明治維新になり日本のほとんどの城は取り壊されてしまう。そりゃそうだ、いつまでも侍がのさばってもらっては時代は変わらない。人間は皆平等であるべきだ。町にいつまでも城がそびえていては江戸時代と変わらないではないか、そんな明治政府や町の声と共に日本の城はどんどん取り壊されてしまうのである。この時代に自分が生きていて、自分が農民だったらもちろんDESTROYを望んだだろうが、わがままジュリエットな明治政府の独断で、日本の古き良き建造物がこの時代に取り壊されことは残念DON'T YOU CRYはなればなれじゃCRY CRY CRYである。

近年、萩城天守の復元の話が持ち上がっては引っ込んで、滑り込んでは引き返したりしてるらしいが、萩城は壊される前の明治時代の古写真が残っているのでそれは実現可能だと思う。ちゃんとしたデータが残っているなら復元はありである。

ここで説明しよう。世の中には3つの建て直しがある。
1つは復元だ。これは古写真もちゃんとしたデータや的確なことを記した書物が残っている場合は可能である。しかもちゃんと城内も復元すると尚良し。外観復元は城マニアにはいただけない。復元とうたうならコンクリートなど使わずちゃんと当時のままに木造で復元してくれなければ寝起きにハードコアを聴くくらい辛い。

2つ目は復興だ。これは古写真もなく言い伝えや書物が中途半端に残っており、でもまあなんとなくこの通りに創ってみっか?というノリで建てられた建造物を指す。ちゃんとZIGGYを聴いたことない後輩がZIGGYのコピーをした先輩の音源を聴きながら頑張ってコピーしました的な感じである。

3つ目は模擬だ。これはそこに天守があったかどうかも定かではないのにも関わらず、町興しのノリで昭和20~30年代の当時の町のお偉いさんの独断と偏見で建てられたケースが多い。親父達のストーンズのコピーバンドと同じで「おそらくブライアンジョーンズはよ~~こういう気持ちで弾いてたと思うんだよなあ~~」というあのノリに近い。まあ町のシンボルとして建てたのだからいいのだが、城マニアとしては石垣やお堀が残ってるだけで十分なのである。

萩城の指月山から見渡す日本海と萩城下は最高の景色である。萩では都内の3分の1の値段でふぐが食える。私の家の茶碗は萩に2度目に行った時に買った萩焼である。ちなみに私の出身は福岡県だが、生まれは山口県屋代島(周防大島)なので山口の城はひいきしてしまう。

ああ萩城。この城が私はその辺の女の子より大好きなのである。

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