-異種格闘技対談-Ring【round2】第23回/綾小路翔(氣志團)

ポスト

-異種格闘対談-Ring【round2】第23回

逹瑯(ムック/Vo)綾小路 翔(氣志團/Vo)

PAGE2

逹瑯:バンドブームでいろんなバンドがいた中で、翔さんの今のスタイルが確立していったのはどういうところからだったんですか?

逹瑯:あははは。まさに『ろくでなしBLUES』ですね、リアルに(笑)。

綾小路:えぇえぇ。リアルにそうですよ。ちゃんと四天王ってのもいましたからね。もうさすがにオジさんになって落ちついてますけど、いまも名が通ってますからね(笑)。そういうのもあって、ウチはウチの中学自体が強かったから、周りが制圧していってくれたこともあって、僕自身はなんもしないのに、周りが従ってくれてたというか。俺になんかすると、アイツとアイツとアイツまで来るから面倒くさいから、手出すのやめとこうぜ、みたいなね。だから、ずっと“さぁ〜せん(ペコリ)”みたいな、オイシイ思いさせてもらってました(笑)。

逹瑯:あははは。すごいなぁ。ホントにリアルに『ろくでなしBLUES』だぁ(感動)!

綾小路:そう。まず中学1年になったときに、誰が一番強いかを決める勢力争いがありましたからね。忘れもしないんですけど、僕もまだ小学校6年生だった頃に、一度ボコボコにされてるんですよ。

逹瑯:え!? 小学生で!?

綾小路:そう。隣りの小学校の子たちって同じ中学に通うことになるじゃないですか。それもあって、小学生最後の12月25日に、一緒にクリスマス会やろうよって呼び出されたんです。だから、楽しみにして行ったら、そこでボコボコにされたんです。

逹瑯:小学校で!? すごいなそれ(笑)。

綾小路:人生で何度も怖い思いしてますけど、その思い出は5本の指に入るくらい怖い思い出の一つですね。

逹瑯:ソイツらと一緒に中学行くの嫌じゃなかったですか?

綾小路:嫌でしたよ、怖かったし。けど、中学に入ってみたら、俺をボコボコにした長の奴が、すごい俺のことかまってきて、“オマエ、そんな学ランじゃダメだよ。それはダサイからこっちにしろよ!”とか、すごく仲良くしてくれて。

逹瑯:なるほど! そのボコボコにされたときに一度征服してるんですね!

綾小路:そう。だからもう向こう的には俺のことを仲間だと思ってくれてたっていうか。その彼は小学生の頃から有名だったくらい強い奴だったんで、中学の先輩たちも一目置いてるというか、すごい可愛がられてて。“おい、辰之介! オマエらの時代が絶対に天下取んだぞっ! 分かったか!”なんつってやってる訳ですよ。

逹瑯:あはははは(大爆笑)。すごい!

――楽しそうだね、逹瑯(笑)。

逹瑯:あははは(爆笑)。めっちゃ楽しい(笑)。こんな話めったに聞けないからね(笑)。

綾小路:ホントですよ、僕もそんときは、“天下ってなんだろ?”って思ってましたけどね(笑)。ようするに、木更津、君津、富津、袖ヶ浦の4市を取れってことだったんですよね(笑)。

逹瑯:すげぇ〜すげぇ〜すげぇ〜!

綾小路:すごいでしょ(笑)。でも、そんな辰之介くんみたいな怪物が同じ学年に3人もいて、更にその周囲にも他の学校だったら番長クラスみたいなのがゴロゴロしていて、もうこの世界で俺がのし上がれる場はないぞ、と早くも中学1年のころに察したところへ、バンドブームが直撃するんですよ。

逹瑯:おっと(笑)! やっと俺の最初の質問の答えに結びつく訳ですね!

――なるほど! 初恋の話からまわりまわって、ここに辿りつくことになっていたんですね(笑)!

綾小路:そういうことです(笑)。

逹瑯:そんときのバンドブームってどのあたりですか?

綾小路:『いかすバンド天国』(1989年2月〜1990年12月までTBS系で放送。略称:イカ天)で出てきたバンドや、ホコ天バンドが時代を席巻し始めた頃です。THE FUSEっていうバンドが(原宿の歩行者天国に)4,700人くらい集めたっていうのがあったんですよ。その映像を撮ったのが、僕らがずっとPVを撮ってもらっている竹内芸能企画の社長の竹内鉄郎さん。当時は大学生だったらしいです。そりゃぁもう社会現象でしたよ。THE FUSEっていうバンドと人気を二分していたのが、NEW DAYS NEWzっていうバンドだったんですけど、そのバンドがホコ天でTHE FUSEと向かい側でやっていたんですけど、突然、ギターのGAKUさん(現THE THRILL)が“今日でNEW DAYS NEWz辞めます!”って言ってステージ降りて、向かいのTHE FUSEのステージに上がってって“今日からTHE FUSEです!”って言って原宿が震撼したっていう伝説のライヴもあったりしたんですよ。

逹瑯:すっげぇなそれ!

綾小路:そうそう。それで、毎週ホコ天に見に行ったり、毎週『イカ天』を夢中になって見てるうちに、だんだんバンドにのめり込んでいっちゃったんですよ。アイドルもダメ、喧嘩も弱くてダメ、こりゃウチの中学でまだ誰もやっていないバンドっていう道に進むしかねぇな、って思ったんですよ。それで頑張ってバイトしてお金貯めてギターを買うんです。

逹瑯:バイトって何してたんですか?

綾小路:中学生ができるバイトなんで限られてたんですけど、新聞配達とマザー牧場の牛乳の瓶を洗う“洗瓶”っていうバイトをしながら頑張ってお金貯めたんです。毎週土曜日に『イカ天』見てそのまま夜更かしして朝を迎え、寝ずに原宿のホコ天に行き、ホコ天が始まるまで森永LOVE(かつて竹下通りにあったファストフードチェーン店)でパンをかじりながら時間を潰し、ホコ天を見た後に、毎週1本だけちっちゃなライヴハウスに足を運び、いろんなバンドのライヴを見るっていう週末でしたね。

逹瑯:すごいですね。ホントすごいや。

綾小路:ずっとバンドやりたいやりたいっていう想いでね。で、その頃、バンドブームってこともあり、とんねるずの『みなさんのおかげです』の中で、『ロックンロール最高物語』っていうコントが始まったんです。田舎者の不良高校生たちがロックンロールに目覚めてバンドを組み、充実した生活を送るようになるっていう青春ストーリーなんですけど。BY-SEXUALとB21スペシャルが合体したBY-SEXUAL21っていうグループがあって、そこと、とんねるずのおふたりが田舎のヤンキー役でやっていたバンドが矢島工務店っていうバンドで、BY-SEXUAL21と闘っていくんですよ。それを見たときに“これじゃね!?”って思って、ちょうど近くに天麻工務店の息子がいたんで、“天麻、オマエも入れ!”って無理矢理誘って天麻工務店っていうバンドを始めたんです。みんな最初は楽器なんか弾けないから、家にある楽器みたいなものを弾いたり叩いたりしてたんです。『イカ天』で、たまがなんかゴミ箱みたいなの叩いてたから、“あ、これでもいいんだ!”と思って(笑)。

逹瑯:あはははは。でも、あったなぁ、そういえば。SATOち(MUCCのドラム)の実家にもありました。缶詰め集めてドラムの練習台にしてました(笑)。

綾小路:音楽性だってちゃんと勉強した訳じゃないから、ハードコアバンドのアルバムとかをジャケ買いしてみたりして。聴いてみたら、“ウギャ▼●☆△×※▼●☆△ウアギャギャギャギャギャ!”みたいな、何言ってるか分からないような2秒くらいで終わる曲とかもあったんで、“あ、こういうのでいいんだ!”みたいな(笑)。だから、曲は5秒でもいいんだ! って思い込んじゃったんです。それもあって、コピーからじゃなく、オリジナルからスタートしたんです。ちょっと話それちゃいますけど、矢島美容室をとんねるずのおふたりと一緒にやらせてもらうことになったのは、『食わず嫌い王』に出してもらったときに、いま話した矢島工務店の話をしたのがきっかけで、後日ノリさんから“本当にやる?”って電話をもらって、矢島美容室をやることになったんです。

逹瑯:へぇ〜。すごいですね!

綾小路:そう。それで、曲どうしようかなって言ってたら、ウチのメンバーが、“天麻工務店の曲にしなよ!”ってメンバーがアレンジしなおしてくれて、その曲が矢島美容室のデビュー・シングル曲になったんです。「ニホンノミカターネバダカラキマシター」っていう。あれ、矢島工務店を見て影響受けて、中学1年のときに僕が作った曲なんですよ。

逹瑯:すごいですね、人生何がきっかけになるか分からないんだなぁ。

綾小路:そうなんですよね。20年の時を経て、こんな現実が待っているとはね! 感激でしたね。それもとんねるずのおふたりに言ったんですけど、さほど感動してくれることもなくって感じで(笑)。

逹瑯:あははは。残念でしたね(笑)。

綾小路:そう(笑)。僕にとっては、バンドをやる一番最初のきっかけですからね。

逹瑯:そうですね、それがなかったら、いまバンドやってないかもしれないんですもんね。

綾小路:そう。人生って無駄ないなぁって思いますよね。そういえば、最初にCoCoの三浦理恵子ちゃんに直接会えたときは、心の中で“あ、俺、この人のせいでサッカーの練習行かなくなったんだ!”って思いましたからね(笑)。昔『パラダイスGoGo!!』っていう番組の中で、三浦理恵子ちゃんがあのミルキーボイスで“あなた意地悪〜♪”って言ってて、部活行かなくなっちゃったんです、僕。

逹瑯:あははは。好きになっちゃったんですね(笑)。

綾小路:うん、そう(笑)。よく理恵ちゃんとも飲むんですけど、毎回決まって、“アンタが俺にサッカー辞めさせたんだぜ!”って言うんです。でも、毎回言うから、“もうその話いいから!”って言われてますけどね。

逹瑯:あははは。翔さんがバンドを始めた頃って、バンドブームだったってことは、たまもいればパンクバンドもいてっていう、いろんなバンドがいた訳じゃないですか。そんな中で、今のスタイルが確立していったのはどういうところからだったんですか?

綾小路:僕はすごくブレてる子だったんですよ。いろんなバンドが入り乱れて対バンやっていた時代でもあったんで、逆にジャンルというモノを意識していなかったというか。正直、何がパンクなのか、何をスカと言うのかも分からなかったですからね。だから、『宝島』に書いてあることがすべて正しいことなんだって思ってたんです。ザ・ブルーハーツも好きだし、ラフィンノーズも好きだし、レゲエのアーティストが『宝島』の表紙になったら、レゲエなんて好きでもないし聴いたこともないのに、表紙だから聴いといた方がいいのかな? ってとりあえず聴いてみたりしてたんで、自分が何が一番好きとかあんまりピンときてなかったんですよ。レコードからCDに代わるときでもあって、当時CDラジカセのCMをBUCK-TICKがやってたんですよね。【重低音がバクチクする!】っていうコピーで。メーカー違いでLA-PPISCHもやってたし、レベッカはミニコンポのCMやってましたね。

逹瑯:あははは。そうなんだ!

綾小路:そうそう。ラジカセやコンポのCMはすべてバンドマンだったんですよ。そこにジャパニーズ・ドリームを感じちゃったんです。とにかくその頃の音楽は節操無く聴きあさりましたからね。みんなが知らないようなバンドをわざと聴いて、ちょっと通ぶってみたりして。

逹瑯:“え? 知らないの?”みたいな(笑)?

綾小路:そうそう。みんながJITTERIN’JINNのCDを貸し借りしているときに、“俺のも貸すよ”つって非常階段のCD出してみたりとか、みんなが新星堂とかでCD買ってんのを、俺は千葉の津田沼にあったマンションの一室でやってるミュージアムっていうレコード屋で品定めしたりしてる自分に酔ってたというか。そんな俺、カッコイイ。みたいなね。

逹瑯:あははは。それ分かりますね。俺も高校生ぐらいのときは、みんなが知らない曲をカラオケで歌うのが好きでしたからね。

綾小路:分かります分かります。

逹瑯:ウチらの兄ちゃんの世代がBUCK-TICKがすごく流行ってたんですけど、ウチら世代だとそこまでコアに知ってる奴がいなかったから、友達とカラオケ行ってもBUCK-TICKばっか歌ってましたからね。櫻井さんの男前さは異常ですよね!

綾小路:そうですよね。僕らなんかは、いまだに言うんですけど、「JUST ONE MORE KISS」のプロモーションをしてたときの後半あたりが一番萌えるポイントで、金髪の髪をちょっと崩して下ろしてる感じの『ポップジャム』の映像が神なんですよ! んで、真似する訳ですよ「Hyper Love」のあっちゃんがグワンって、首を振るあのシーンを!

逹瑯:あはははは(大爆笑)!

綾小路:でも、全然違うわいっ! 的な。

逹瑯:あはははは(大爆笑)! あんなスローなテンポ感で、顔のアップだけで何秒も耐えられる人、他にいませんからね!

綾小路:DER ZIBETのISSAYさんとかね。歴代の美しい人はとにかく憧れましたよ。

逹瑯:DER ZIBETのISSAYさんね! 一度ラジオのゲストに来てもらったことがあるんですけど、まったく私生活が見えない人でしたね。

綾小路:でしょうね。でも、やっぱりそういう美しい人たちと並ぶことはできないなと。それもあって、そっちのジャンルにはいかなかったんです。とりあえず友達同士でバンド組んだんですけど、そのうちの何人かが不登校になっちゃって、結局バンドできなくなっちゃってたら、ちょうどヤンキーの子たちがやってたバンドも人数足りなくなっちゃったっていうんで、一緒にやることにしたんですよ。その頃、僕はドラムだったんですけど、ドラムはいたからやる人がいなかったギターになったんです。そのバンドでヴォーカルやってたのが、いまのウチのドラムなんですよ。

逹瑯:え!? そうなんですか! っていうか、最初からヴォーカルじゃなかったんですね。

綾小路:ヴォーカルなんてまったく考えたことなかったですね。

逹瑯:そうなんですか!? 逆に俺はヴォーカルしか考えたことなかったですけどね。楽器できないんで。

綾小路:僕は母親が音痴で子守唄も歌ってくれないような母親だったんで、遺伝で絶対に歌は下手だと思ってたし、もちろん、母親からも“アンタは私が音痴だから絶対に音痴よ!”って擦り込まれてたんで。

逹瑯:あははは。またそこも擦り込まれてたんですね(笑)。

綾小路:そうそう(笑)。

逹瑯:千葉辺りだと上京って感じではないですよね?

綾小路:いや、でも僕の場合は上京って感じでしたね。でも、何か理由がないと東京に出られないので、出る手段としては就職しかないんですよ。それで先生に、卒業前の3月くらいに就職口を相談したら“オマエ、もう遅いよ〜”って言いながら求人探してくれて。“ガゾリンスタンドが募集してるぞ!”って、そこが住み込みで寮もあったから“んじゃぁもぉそこにする!”っ上京したんです。それで面接に行って、“んじゃおいで”って言ってくれたんで、布団だけ送ってもらう感じで、高校卒業してすぐに引っ越ししたんです。

逹瑯:その寮は何処にあったんですか?

綾小路:六郷土手。

逹瑯:何処ですか、それ!?

綾小路:あのね、京浜急行の川崎の一個手前。ギリギリ東京みたいなところです。東京とは思えないとこで。最初は免許取りながら働いてたんで、教習所に通いながら行ける恵比寿にいて、みたいな感じでしたね。でも、その頃すごく忙しくてバンドができなくなっちゃって。バンドやりに東京に来たのに、俺、なにやってんだろ? ってモヤモヤしてたときに、一緒に上京したドラムの奴が6バンドくらい掛け持ちしてて。そこそこ動員のあるバンドのサポートもしてたんで、いつくかライヴを見に行ったら、すごいお客さん入ってるときもあって、余計にモヤモヤしてきちゃって、こんなんじゃダメだと思ったんですよね。でも、そこでどうやったらライヴハウスに出れるのかとか、どうやったらレーベルから音源がリリースできるのかっていうのをいろいろと調べてたら、なんか、やっぱ横の繋がりとかがすごく重要で。たいして演奏力がなくても横の繋がりでなんとかなっちゃう世界なんだっていうのを知っていくことになるんですよ。当時、後輩もバンドを始めて東京ではどこのライヴハウスから攻めていった方がいいかとか相談されたときに、やっぱ老舗のハコを勧めて、なんとかオーディションまでサポートしてあげたりしてたんですけど。すげぇ演奏力もあるバンドなのに、そこの店長とかオーディションなのにも関わらずちゃんと演奏見てなくて、終わった後“ん〜、君たちはもうちょっと頑張った方がいいね”っていう一言で終わりだったんですよ! 僕、その人がそいつらの演奏を見てなかったの知ってたから、これないなと思って絶対にそこのライヴハウスにはどんなことがあっても一生出ない! って決めたんです。レーベルもそう。横の繋がりが重要なんだっていうのが分かってから、自分たちから売り込みにいくのは絶対に辞めようと思ったんです。オーディションも受けない。向こうから声をかけてもらうようになるまでは、絶対に信じないって決めたんです。

逹瑯:へぇ〜(興味深々)。

⇒NEXT INTERVIEW-3

この記事をポスト

この記事の関連情報