陰陽座、人の心の奥底を照射する初のコンセプトアルバム『鬼子母神』大特集
陰陽座
トータル・コンセプト・ストーリー・アルバム『鬼子母神』2011.12.21リリース
INTERVIEW
瞬火:そうですね。12年前の結成直後、スタジオ練習のあとメンバーと居酒屋で“こんなバンドにするぞ!”と夢を語り合っていたなかで、“9枚まで行ったら九尾の狐の曲を作って、10枚まで行ったら『鬼子母神』というコンセプト・ストーリー・アルバムをやる”と宣言してました。もちろん、当時は1stアルバムもまだ制作していない状況だったので、みんな与太話くらいにしか考えてなかったでしょうけど。その時点で今作のために書いた脚本「絶界の鬼子母神」のストーリーが全てあったわけではないんですが、鬼子母神の伝承を基にした壮大な話を音楽作品にする、ということだけは決めてました。それが12年を経て、満を持して有言実行されたということです。
瞬火:鬼子母神っていうのは、インドだとハーリティー、漢字だと訶梨帝母(カリテイモ)とも呼ばれる女神で、自分の千人の子供のために人間の子供を取って食わせていたんですね。それは凄まじい“母性”ですが、いわば母性という名の強烈な“エゴ”でもあって、子供を取られたほうの気持ちを理解させるために、お釈迦様がハーリティーの末っ子を隠してしまうんです。そこで“千人の内一人でも欠けたら死んでしまいそうなほど悲しいのだから、お前に子供を奪われた親の嘆きがわかるだろう”と諭す、この成り立ちが僕はすごく好きなんですね。自分のものが一番大切というエゴは全ての人間が多少なりとも持っているものですが、そのために人のものを奪うことの愚かしさを単なる説教ではなく、同じ目に遭わされることで、ようやく本当に実感できるというシステムが。逆に言うと、実際そういう目に遭わないかぎり、人間は自分のエゴに気づけないのかもしれない。そういう人間の業だとか性という部分が、すごくシンプルに教訓化されているお話なんです。じゃあ、それを膨らませて人間世界の中に置き換えてゆき、いろんな登場人物の感情を絡めていくことで、より深くそのテーマを物語として描いていけるのではないか? かつ、それを音楽にできるのではないか? というのが、12年前に僕が考えていたことですね。つまり、陰陽座というバンド活動を進めていくなかで掲げていた、一つの明確な目標だったんです。この『鬼子母神』は。
瞬火:よく“本当に悪い人なんてこの世の中にいない”とも言われますが、逆に“本当に良い人なんてこの世にはいない”と僕は思っています。だからといって人間はすべてが悪人だと言っているのではありません。誰かにとって善きことは、他の誰かにとっては悪しきことかもしれない、という意味で、完全なる善や正義というものはあり得ないということが言いたいだけです。逆に、完全なる悪、というものはこの世にありますけどね。ただ“人間”とはどんな時代、状況においても、ともすればこういうことを考えてしまう、そして考えるだけでなく、実行してしまうこともあるもの……ということを、とにかく今回の物語で描きたかったんです。そのために、今までは歌詞だけで朧気にしか表現されなかったような部分も、脚本の中で言葉として登場人物に吐き出させ、またそれを自分で受け止めて歌詞に落とし込むことで、自分が深く描きたいと思ってきた“人間”というものを、ここで一度ハッキリさせる。そして、それを音楽に昇華させることのできた作品ですね。
瞬火:うん。そう言っていただけるとありがたいです。
瞬火:そうですね。今まで楽曲に何らかの形で込めていたものをハッキリ脚本という文字に表して、それをシーンごとに楽曲にしてゆく。そこで重きを置いたのは、脚本を読まずにCDだけ聴いた場合でも、音楽ソフトとして十分に楽しめるものを作るということだったんですよ。シンプルな楽曲の並びで楽しめて、かつ、脚本と絡めて聴けば一つひとつの楽曲によって物語の場面が色濃く景色として浮かび上がってくる。“コンセプト・アルバム”とか“ストーリー・アルバム”と言うと、ともすれば独りよがりでリスナーに我慢を強いるようなものに陥る危険性もありますが、そのなかで“音楽として楽しむ”と“完全にストーリーを表現している”の二つを兼ね備えたかったんです。
瞬火:脚本を書く際に、単品の物語としても面白く読める起承転結を心がけたので、その結果が気持ちよく聴けるアルバムの展開というところに上手く繋がったのかなとも思います。何より各楽曲が単品で楽しめるというのは、絶対に守りたいところだったんですよ。例えば、このお話を1曲で凝縮しろと言われたら20分以上の難解な曲になったかもしれないですけど、アルバム1枚なんですから。各楽曲に場面を預ければアルバムとしても無理なく聴ける上に、よりシーンをクッキリと物語ることができる。そして、流れで聴けば一つの物語になっているという仕組みを作りたかったので、脚本の存在は不可欠だったんですよね。12年間かけて自分の中に溜めてきた物語を書き上げ、誰もが読める状態にすることで、まず、メンバーが僕の描きたいストーリーを一瞬で共有することができ、僕と同じテンションでその後、僕が用意した楽曲に臨むことができる。そしてリスナーも完成したアルバムを僕たちと同じ条件、情報量で楽しむことができる。言い換えるなら、本当の意味で全てを共有できる作品になったので、そういう意味でも“今までで一番わかりやすい”と言っていただけるに足る作品だと自負しています。
瞬火:そうですね。例えば演奏や唄のジャッジをするにしても、普通なら“これは激しい曲だから力いっぱい歌っておけばカッコいい”となるかもしれませんが、今回だと楽曲は力強くても、歌われている内容と人物の脚本における心理状態は、そんなに簡単なものではないので。常に脚本を確認しながら、より人物の感情にそぐった表現になるように、緻密にディレクションしていきましたね。
瞬火:書き始めたのが今年の4月中旬で、5日で書いたあと、念のため2、3日推敲の時間をとったから、計1週間くらい。それでメンバーに渡しました。
瞬火:いや、絶対無理です(笑)!これは特別なんですよ。12年前から少しずつ、こういう登場人物を出そう、こういう台詞を言わせようと、12年かけて溜めていったものですから。本当のことを言うと、結成以来、いつこのアルバムを作ってもおかしくないくらいの状態でした。でも“10枚目でやる”と宣言もしていたし、その真意として10枚アルバムを重ねるくらいのバンドに辿り着けたら、僕の思うストーリーを完全に作品として表現できる技量が備わっているだろう、という考えもあったので。そこまでバンドを練り上げたうえで挑みたかったから、必死に我慢していました。ただ、脚本のプロットを12年間少しずつメモしておくということは一切しなかったんです。忘れたらそれは忘れる程度のことという基準で全て頭の中だけに溜めて、遂に書き始めてもいいと自分にゴーサインを出したとき、本当に堰を切ったように……とめどもなく出てきたんですよ。僕、ワープロの検定も持っているし、そんなにタイプスピード遅いほうじゃないんですけど、それでも“なんで指の動きってこんなにもどかしいんだ!?”と思うくらい、頭の中ではだいぶ先の台詞が鳴っていた。要するに1週間で書いたというよりは、12年溜めたものが一気に出ただけなんですね。だから、これを書いたことで“作家デビューした”なんて言うつもりは毛頭ありませんし、仮に“2冊目を”と言われても、少なくとも今は絶対に無理です(笑)。
瞬火:そもそも“これからアルバム作るから脚本を読め”なんて、普通のバンドにあるプロセスではないですよね(笑)。それでも全員が一つの読み物として没頭して読んでくれたようで、例えば黒猫の場合は、もう一気に読んで気がついたらとめどもなく涙が流れていて、次の瞬間には、これが音楽になって自分がそれを歌うということに戦慄し、喜びもあり……本当に感情が溢れ出たと話してましたね。招鬼にしろ狩姦にしろ、それが自分たちのバンドの音楽になるんだということに興奮したし、純粋にお話として最高に面白く読めた、という感想を、脚本を渡したその日のうちに貰いました。
瞬火:それは作り手冥利に尽きますね(笑)。
瞬火:確かに冒頭の“はな”とか、12曲目の“はな、行こう”というたった一言を録音するのに、むしろ歌を録るときよりもこだわったかもしれませんね。いわば女優である黒猫と、監督である僕とで脚本を握りしめながら、どんな気持ちで、どんなトーンで言われるべきなのか?“ここだ!”と納得できるトーンに辿り着くまで二人で追究し続けたので、あれは本当に心に突き刺さる台詞になっていると思いますし、僕も自分で脚本を書いて全部の仕掛けも把握しておきながら、同じところで泣きそうになります(笑)。
瞬火:おっしゃる通り、この物語の文字通り“肝”を握っているのは、静と禎という二人の鬼子母神(きしもじん)ですよね。同じ道を辿るかもしれなかった二人の強烈な母性を持った女性が、それぞれ道を違えたときに、どういう展開になったのか? それを綴っている物語なので、真の主人公は僕も静だと思っていますし。静の決意と心情変化、それによる行動が物語を動かしているので、そこがクローズアップされるのは必然ですね。脚本においても九鬼十蔵は一応主人公ではあるけれど、あくまで読者と一番立場が近い人間という意味での主人公なんですよ。彼は登場人物の中で唯一の“村の外から来た人間”ですから。
瞬火:そうですね。1曲目と12曲目に、同じメロディと“はな”の台詞が置かれているのも、脚本では冒頭の場面がラストシーンのフラッシュバックになっているからですしね。そこで“鬼”と記述されているものが、最初は少女・はなと共に山で暮らす茂吉かと思わせて、実は最後まで読むと静であることがわかるというギミックも、実は仕込まれているんですけどね。つまり冒頭SEでの黒猫の台詞は、脚本では言葉として書かれていない“《鬼》が少女に何かを語りかけた”の“何か”であり、2曲目からが十蔵の出番なので、割と脚本の流れをそのまま音楽化している感じになっています。
瞬火:特には設定してないです。やはり当初はプロモーションという意味でも、どれか1曲をリード・トラックにして映像化するべきではないかとも考えたんですが、やはりアルバム1枚12曲で一つの物語ですからね。もし映像を作るのであれば全編につけなければ成り立たないので、どれか1曲だけを取り上げてアルバムを象徴させることは相応しくないと判断しました。もちろん音楽的にはどれを取り上げてくれても全く構わないですし、例えばラジオで1曲かけるとしたら2曲目の「組曲「鬼子母神」~徨」なのかな……とは思いますけど、逆に言うとその程度の感覚でしかない。つまり、1曲を摘み出して宣伝できるような性質の作品ではないということでもありますし、どの楽曲を摘み出していただいても何も困ることのない作品、ということでもあります。
瞬火:“迷い”は物語のキーワードの一つでもありますし、そもそも主人公の九鬼十蔵という人物の状態を表すキーワードでもあるんですよ。キーワードは登場人物それぞれにあるとは思っていて、例えば静は“肝”ですかねぇ。作品の肝という意味でも、赤子の生き肝を求めたという意味でも。茂吉は“怨み”だとか“復讐”。そのなかでも、とにかく十蔵は迷ってるんです。その十蔵が最初から抱えてる迷いと、物語に巻き込まれてさらに生まれていく迷い、全部の迷いがここで象徴されているから、この曲は脚本一幕目の描写でもあり、物語全体を通しての十蔵のテーマでもあり、この物語自体の主題歌でもあるということになっています。
瞬火:これが実は明確で。今まで「九尾の狐」だの「安珍と清姫」だの、もとから有る伝説を自分の中で増幅させて、独自の物語に仕上げて歌詞に落とし込むということをしてきましたが、それを自分の脚本に対してもやったんです。
瞬火:脚本中では台詞も無く名前しか出てこないようなキャラクターが、アルバムでは歌っていたりするんですよ。だから、その“迷うなかれ”は山道にも人生の道にも迷いっぱなしの十蔵に対して、死んだ彼の妻・佳乃の魂が呼びかけている言葉なんですね。もちろん、そんなシーンは脚本にはないんですけど、それを音楽化した作品ならば、目に見えないものが音として存在してもいいだろうと。なので“天の声”っていうのは、ある意味正しいんです。佳乃の魂も、天の上から俯瞰して見ていることに変わりはないから。
瞬火:この曲に関しては、全て佳乃さんのパートです。“迷わないで”の他にも“貴方の足枷になりたくない”だとか、アルバムで初めて台詞が与えられているんですよ。
瞬火:全楽器全弦1音下がってます。今までレギュラー・チューニングに拘って100曲以上作ってきましたし、今作にしてもレギュラーで全く問題なく作れますけれど、やはり物語の性質が非常にシリアスで、怒りや悲しみを伴ったものなので。より重厚かつ深みのある表現や音を意図してチューニングを下げるという方法論は、このタイミング、この物語ならアリだなという判断での導入ですね。とはいえ、もちろんダウン・チューニングにありがちなダルダルした音像にはなっていませんし、音のハリを維持するというところは楽器から演奏含めて留意したので、言わなければダウン・チューニングだと気づかないかもしれません。それでも3曲目の「組曲「鬼子母神」~産衣」などでは、ダウン・チューニングならではの重厚さを味わっていただけるのではないかと。どっしりしたリズムとバックに、まさに静の狂気を孕んだ“母性”を黒猫が歌い上げ、招鬼の渋いギター・ソロも絶妙に彼女の狂気を表現していると思います。
瞬火:これは、まさしく作中で村人が歌っている「鬼拵ノ唄」そのものですね。それも十蔵だとか静だとかの側から聴けば、忌まわしいことこの上ないんですけど、この風習が年に一度あるおかげで鬼拵村の人間はウハウハで過ごせるわけで、彼らにとっては最高にテンションが高まる瞬間なわけです。だから視点を村人に切り替えれば、どんなに酷い風習を歌ったものであっても、こういう楽しい曲になるんですよね。そういった視点の切り替えにより楽曲のテンションを操ることで、ともすれば物語の内容的にあまりに悲しく、陰惨なアルバムに仕上がりそうなところを、いつもの陰陽座のアルバム・バランスに近づけているんです。