L'Arc~en~Ciel、結成20周年を迎えるいま、その胸中を語る

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L'Arc〜en〜Ciel

再起動 L'Anniversary Celebration.

INTERVIEW

さすがに20年後のことまでは考えてなかったですけれど、不思議と成功する自信はありましたね。

――L’Arc〜en〜Cielバンド結成20年ということになります。バンドの創始者であるtetsuyaさんが最もその重みを感じているのではないかと思うのですが、いかがです?

tetsuya:20年っていうのは自分でもびっくりですね(笑)。もう20年ですね。早かったです。おそらく世界的に見ても20年続いてるバンドは少ないと思うので、それだけでもすごいことですよね。ファンとメンバーに感謝しないといけないなと思ってます。

――ソロアルバム『COME ON!』の中の「In My HEART」という曲はL’Arc〜en〜Cielへのオマージュソングですが、その中の“僕らが進む未来 輝き増して行く”というフレーズがとても印象的でした。L’Arc〜en〜Ciel結成当時、バンドの未来図を描いていましたか?

tetsuya:基本的にL’Arc〜en〜Cielを作った時から、僕の考え方は変わっていないと思います。さすがに20年後のことまでは考えてなかったですけれど、不思議と成功する自信はありましたね。

――L’Arc〜en〜Cielというバンド名はどんなところからつけたのですか?

tetsuya:個々に考えてきた案の中から僕が提案したL’Arc〜en〜Cielという言葉が採用されたということですね。当時はインターネットとかなかったので、本屋とかでいろんな資料を見たんですが、その中にこのフランス語の言葉があった。意味は虹ですけど、分割すると、天空にかかる橋。見た目もいいし、響きもいい。音楽でいろんな色を表現するというところでも合うなと。長くて、覚えにくいものではあるけれど、アルファベットで表記した時にインパクトがあると思ったんですよ。僕はその当時、梅田のレコード屋さんでアルバイトしてたんですが、梅田に同じ表記の喫茶店があって、そこからとったという説がずーっとウィキペディアに書かれてたんですよ。僕の知人からも“そうなんだってね”って、当たり前のように言われたりもしました。でもまったく関係ないです。バンド名をつけた時点で、そんな名前の喫茶店があるなんて、知らなかったですし、冷静に考えてみて下さいよ、喫茶店の名前からバンド名をとるわけないじゃないですか!? しかもそこはカタカナ表記だと「ラークエンシエル」ですし。

――確かにそうですね。

tetsuya:これまでも何度も否定してきたんですが、そう言われ続けてきた期間が長いので、ここでもきっぱり言っておきたいですね。

――L’Arc〜en〜Cielでの最初のライヴは1991年5月30日の難波ロケッツということになりますが、その時のことは覚えていますか?

tetsuya:はい、対バン形式ではあったんですけど、僕らだけで120〜30人は集まったんですよ。自信はあったけれど、まわりからはファーストライヴでそれだけ動員するのはすごいことだと言われました。

――動員数を増やす努力は?

tetsuya:もちろんしましたよ。いくらいいライヴをやったとしても、見に来る人がいなければ、広がらないわけだから、1人でも多くのお客さんに集まってもらうために考えつくことはすべてやりました。

――具体的にはどういうことをやったのですか?

tetsuya:当時はインターネットもなくて大変でしたが、具体的な事? それは企業秘密ですよ!(笑)まずちゃんとしたアー写を撮って、チラシやフライヤーを作りました。ただし、メンバーが直接配ったことは1度もないです。よくアマチュアの子が自分達でチラシ配ったりしますが、L’Arc〜en〜Cielはそうしたことを1度もしたことがないんですよ。最初からそういうブランディング(マーケティング用語。差別化して、ブランドの価値を浸透させていくこと)を考えてましたね。最初からしっかり戦略を立てていました。

――音源の制作に関しては、どんな方針だったのですか?

tetsuya:当時、デモテープ、デモ音源を作って、ライヴ会場で売っていくということをやるアーティストがまわりにたくさんいたんですけど、僕たちはそういうことも一切やってないんですよ。デモを売ったことは1度もない。L’Arc〜en〜Cielにとっての初の音源は『GIMMICK』っていうオムニバス・アルバムに収録されている「Voice」という曲なんですが、そのアルバムもメジャーのレーベルからリリースされていますし。

――当時、ビデオプレゼントGIGもやっていますよね。それはどうしてやることにしたんですか?

tetsuya:複雑な事情があって。インディーズ・バンドに群がる大人って、いっぱいいるんですよ、今も昔も。ライヴハウスでちょっと動員があると聞くと、すぐ飛んできて、“うちでやらないか”って声をかけてくる金儲けを考える大人たちがたくさんいる。オレらのとこにもいっぱい来ました。当時のしがらみの中ではどうしてもお断りしにくい話もあって。自分達的にはタイミングとしてまだ何も出したくなかったんだけど、作ることはどうしても避けられないという状況になったので、“売るのはイヤなので、無料配布で”ってことにして、配布しただけの話なんですよ。当時はメジャーから話が来ても、断っていましたから。

――それはまだ世の中に出るには早すぎると思ったのですか?

tetsuya:自分達が納得出来るタイミングでしたいということですよね。バンドを結成して、間もないし、ツアーも回ってない、何もやれてないという段階で、先に行きたくなかった。やるべきことを1個1個つぶしていきたかった。階段を1段ずつ上がってる時に、いきなりエレベーターで飛び越えて行こうよという話には乗らなかったということですね。

これからは、この4人がL’Arc〜en〜Cielなんだというイメージを植え付けたいという意識はどこかにあったんじゃないかと思います。

――メジャーでのファースト・シングル「Blurry Eyes」がリリースされたのは1994年10月でした。実際にメジャーでデビューしてみて、いかがでしたか? インディーズのように自由に活動できないことも出てくるというような話も聞きますが。

tetsuya:そういう話はよく先輩のアーティストから聞いてました。メジャーだとこうしろああしろって言われて、自由にできないって。でも僕はメジャーに来て、全然そんなことないじゃんって思いました。やりたいことは全然できるし、あれしろこれしろって誰も僕には言いませんでしたから。もちろんやりたいことはインディーズでもメジャーでもやれるんだけど、予算が多い方が規模の大きな展開が可能になる。やれることが増えていく。なので、僕にとってはメリットしかなかったです。

――メジャーデビュー後は順調に支持層が増えていきました。ただ、1997年はしばらく活動できない時期もあったので、バンドにとっては逆境の時期だったのではないですか?

tetsuya:転んでもただでは起きないバンドですから。不安みたいなものは特にはなかったですね。それにどんな世界でも仕事をやる上でのトラブルはつきものだと思うんですよ。そのトラブルをいかにしてスマートに解決していくかで、仕事のできる人とそうでない人とが分かれるので。

――その直後の12月23日の東京ドームでの『1997 REINCARNATION』の素晴らしさはライヴ映像からも伝わってきます。「虹」で始まって、「虹」で終わるという構成も見事でした。

tetsuya:そうですね。あのライヴは良かったと思います。

――tetsuyaさんがしきりとyukihiroさんの手を上げたり、背中を押して、前に出そうとしたりしていた光景も印象的でした。

tetsuya:yukihiroくんを守るためにもそういう行動をとってたんだと思いますけど、当時、心ない前のメンバーのファンから酷いバッシングを受けてたんですよ。これからは、この4人がL’Arc〜en〜Cielなんだというイメージを植え付けたいという意識はどこかにあったんじゃないかと思います。そのためにはそれまでにやった以上に数多くのライヴをやることだな、たくさんリリースすることだなって思っていましたから。

――1999年には『1999 GRAND CROSS TOUR』もありました。ライヴ映像で見ても、あれだけの規模の野外ステージの景色はすごいですね。ステージ上から見えた光景はどうでしたか?

tetsuya:気持ちいいですよ、それは。

――あれだけの規模のステージをやっていくには相当、エネルギーを使ったと思うのですが、『1999 GRAND CROSS TOUR』をやり終えて、達成感はありましたか?

tetsuya:まだL’Arc〜en〜Cielのラの字も知らない人もいっぱいいるし、知ってても、メンバー4人の名前と顔が一致しない人のほうが多いと思ってましたから。まだまだやることはいくらでもあるなって。

――この20年間でL’Arc〜en〜Cielの視覚的なイメージ、ファッションやメイクはどんどん変化してきていると思うのですが、その時々に表現している音楽と連動させているのですか?

tetsuya:計算ですよね。最初にメイクをしていたのもそう。インディーズでバンドをやり出した頃には“ヴィジュアル系”なんていう言葉はどこにもなかった。その当時、言われるとしたら“お化粧バンド”とか“黒服系”という言われ方だった。もともと僕は小学生の頃からジュリー(沢田研二)が好きで、その後、小学生の高学年の時に一風堂やYMOを見て育ってきているので、きれいな男の人が化粧することを当たり前のように普通に受けとめていたので、自分がバンドをやって、人前に立つ時にも化粧をするのは当たり前だと思っていたんですよ。それで最初は化粧をして、髪の毛も長くて、髪の毛立てて、派手にしてやっていたんですけど、そこから先に進むには、そのままじゃダメだなっていうのはやる前からわかっていた。ある程度、レベルが上がった時に、スパッと髪の毛を切りたいなと考えていた。それはきっとインパクトがあるだろうなって。メイクを薄くしていって、ナチュラルにしていったのも、売れたからそうしたのではなくて、売れる前からそうしようと思っていたんですよ。

――そのあたりはプロデューサーとしての発想ですね。

tetsuya:そうですね。バンドのリーダーではありますけど、会社の経営者みたいな感覚もありますね。

――それにしても、tetsuyaさん、hydeさん、kenさん、yukihiroさん、この4人がひとつのバンドをやっているって、すごいことだなと思います。全員がソロ活動もやっていて、作詞・作曲もやっていて、歌も歌える。このメンバーが同じバンドをやっているって、奇跡的なことなのではないですか?

tetsuya:そうですね。

――2011年はさらに活動が活発化するだろうなという期待感があります。

tetsuya:結成した時から変わらず、やるべきことをきっちりやっていく、階段をひとつずつ登っていくという事だと思います。

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