比嘉栄昇 独占インタヴュー
比嘉:宮古島ではとても大切な言葉なんです。オレの両親が宮古島出身なので、家庭内では100%宮古島の方言。だからオレは石垣島で生まれ育ったけど、石垣の言葉がわからないってのがあるんです。BEGINは3人とも両親の出身が石垣島以外なんで、3人とも石垣島出身っていうのは微妙なんですよ。だからBEGINでは宮古島の方言を使いにくかったこともあります。で、この“アララガマ魂”っていうのを宮古島の人たちは持っているんですね。“最後の最後で頑張れる”“崖っぷちで踏ん張る”というのが“アララガマ魂”。失敗を重ねても最後の最後で成功をつかむとかね。ケンカになっても、アララガマ魂があれば負けないとか。そういうのにずっと助けられてきたんですよ。大きなステージに立っても、アララガマがあるから大丈夫ってね。それと“またワイド”っていうのは、“また頑張ろう”っていう意味です。
比嘉:この曲もかなり前からあったんです。サビの部分とか。ウチの父親や親戚の叔父さんとかに“BEGINの曲は難しくて歌いにくいよ”ってよく言われてたんです。彼らとは聴いて育った音楽が違いますからね。その溝を埋められるような歌を作りたいって思って。このアルバムを作り始めるときは、“演歌も作るぞ”って思ってたんです。その気持ちで作ったのがこの曲です。でもあんまり演歌っぽくならなかったのが、ちょっと残念。でも、ここ止まりってのもいいことななのかなと思うところもあって。
比嘉:これは田端義夫(バタやん※)さんに歌ってほしくて作った歌です。バタやんに歌を作らせてもらえないかとずっと言い続けてたんです。バタやんは、いわゆる沖縄の奄美の島唄テイストっていうものを世に広めた人。ウチの親父がバタやんの大ファンで、ずっとフォークギターで彼の曲を弾いてたんです。そういう環境だったので、オレもギターを弾きだして。だから、今のオレがあるのはバタやんのおかげ。親孝行の意味もあって、いつか田端義夫さんに歌を作れたらいいなと思ってたんですが、それが2001年に実現して、そのときに作った歌です。
比嘉:いざ話が決まって田端さんの本を読んだり歴史を知れば知るほど、恐ろしくなって作れなくなっちゃいましたね。だから親父の歌を作ろうって考えを切り替えたんです。ウチの親父に若い頃のことをよく聞いてて、それがまるで映画のように頭にあって、そのことを唄にしたんです。だから、これはウチの親父とお袋の映画の主題歌。それを田端さんに歌っていただいたんです。BEGINで歌おうとしたんですけど、まったく歌えなかった(笑)。自分で作っても、歌えない歌ってあるんだなと。気持ちがどこに向いているかで歌は変わってくる。その人の人生を歌にして作れば、たとえそれが自分で作ったものだとしても、その人生に追いついていなければ歌えない、ということを教えられました。それを今だったら歌えるかなという思いと、親孝行だと思って歌えば恥をかいてもいいやと思えるようになりました。
比嘉:これは作詞した覚えがないんです(笑)。元甲斐バンドの大森信和さんは、僕らにとってアニキでもありお師匠さんでもあります。僕らは同じレコード会社で、僕らのディレクターをしてくれてたんですね。大森さんが会社を辞めるときに、“栄昇、もしこの先ソロアルバムを作ることがあったら、オレがギターを弾くからな”って言ってくれてたんです。それで、いつか大森さんと歌を作りたいと思い続けてました。でもそれは時期が満ちてこないと出来ないこと。時期が来ないままに大森さんは亡くなってしまいました。でも音楽って不思議で、亡くなってもCDを聴けばそこに生きている。最後に大森さんが残した『Peace & Freedom』というインストアルバムがあって、その最後に何気なく「Blue sky」というアコースティックの曲があるんです。インストの曲だから、オレが歌詞をつけて歌ったら、大森さんと一緒に作ったことになるかな、と思って。
比嘉:ほんとにこれだけしかない短い曲なんです。だから、Bメロ作ってサビを付けてって、“オレが受け継いでやろう”っていろいろやってみたんですけど、どうも違うんですよね。仕事部屋でああだこうだとブツブツ言いながら、大森さんの真似してお香を焚いたりして、匂いのきつさに頭が痛くなってやめたりとか。そんなことをしているときは、ずっと大森さんと一緒にいるカンジがしてたんですね。そうこうするうちに、何も付け足さなくてもいいんだ、この曲は中途半端に終わっているんじゃなくて、これで完成してるんだ、と分かってきたんです。で、そのときに大森さんと話をしているような気分で歌詞が自然に出てきた。だから“オレは歌詞を書いた覚えがない”ということなんです。