1stアルバム『ゼロへの調和』リリース 総力特集INTERVIEW 1

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――デビュー曲の「ツバサ」は、リリースから4ヵ月経ってからトップ10入りを果たしましたが、その時の心境は?

真戸原直人(Vo&G)ホームページに来てるメッセージを見てると、いろんなところに届いてるなぁっていう実感はありますけど。家の周りのCD屋にも置いてなかったのが、最近ちょっとずつ置いてあったり。……まぁ、嬉しいですね。

阿佐亮介(G&Cho):自分たちの曲を知ってる人が、日に日に増えていっているのは嬉しいですよね。でも売れたからどうこうっていう実感はなくて。今までライヴで手売りをやってたのとは違った形で聴いていただいて、「いい曲ですね」って言われると、インディーズとは違うなぁっていうくらいで。


――結成してからメジャー・デビューまで7年あったわけですけど、その時間は長いと感じていますか?

真戸原:7年ていうと長く感じるんですけど、いつも「次に何やろう?」ってメンバーで話してて。ずっと音楽に想いを向けて、一歩ずつ一歩ずつ来てる感じやったので、こんなもんかなぁっていう。めちゃめちゃ苦労した、みたいなこともないし。ほんまにやりたいことをやらしてもらってた中で、いろんな協力してくれる人が増えてきたという感じですから。

 音楽業界とかぜんぜんわかんなくて、
 ワンマンして自主制作CD作ればメジャーにいけると思ってたんですよ(笑)。

――大阪から東京に出ようと思ったきっかけは?

真戸原:生まれ育ったのは大阪でも枚方っていう田舎のほうで。音楽業界とかぜんぜんわかんなくて、市内のライヴハウスにはむちゃむちゃ恐い人がいるとか、メジャーのアーティストしか来てないとか思ってたくらい。ワンマン・ライヴをして、自主制作でCDを作ればメジャーにいけるって、そのときは思ってたんですよ(笑)。

――いくつの時ですか?

真戸原:22、23歳ぐらいで、それなりに大人になってたんですけど(笑)。見たことのない世界やったんですね。それで、僕らの思い描いていた大阪の現実を知って、これからどうしようかって。もっといろんな人に観てもらう機会を作るためにも東京に出て勝負しようと。自主制作のCDを持って出たんです。

――23歳のときに、就職するでもなく東京に出るって言って、ご両親は反対しませんでした?

真戸原:ないなぁ。

阿佐:ない(笑)。


 成功するしないに関わらず、40歳までは死ぬ気で音楽を続けます。

真戸原:ほんま、タイミング的なもので。初ワンマンをしたのが僕が大学を卒業した次の年で、谷口(Dr)が高校卒業した次の年。それぞれがほんまに東京に行くかどうかっていうのを、親にも相談したときがあって。谷口は高校のときからずっと僕らとバンドやってたし、全員バンドめっちゃやってたから、親も「やりたいんやろな」って思ってたろうし。


阿佐:僕も何も言われなかったですよ。けっこう、家が音楽聴いてた環境だったんで。「やるからにはせいぜいやってこい」って。その代わり、自分の中では制約はあるんですけど。


――どんな?

阿佐:40歳までは死ぬ気でやる。成功するしないに関わらず、40までは音楽を続ける。まぁそれは内に秘めたものやったんですけど(笑)。

真戸原:初めて聞いた(笑)。


――真戸原さんはそういう自分の中での決め事はありますか?

真戸原:期間的なものはぜんぜんないんですけど。大学まで行かしてもらった親に対して、後悔せんように、やりきること。あとは、変な事件起こさんように、ぐらい(笑)。

――今の状況を見てご両親は喜んでるでしょうね。

真戸原:メジャー・デビューっていうのが嬉しかったみたいですね。ラジオ出るよって言ったら親戚に電話してくれたり。ほんまにわかりやすい(笑)。CDもちょくちょく買って、僕がサインしたのを配ったり(笑)。僕ら本人よりも、親のほうが「どうすんの?」みたいなところがあったと思いますよ。

――当人としては焦りはなかった?

真戸原:正直ありましたけど。「どうなるんやろ?」「どうやったら聴いてもらえる状況を作れるんやろ?」とか。曲とかライヴとか、もっと頑張ったらメジャーとかそういうステージに出してもらえて、自然といくもんや、みたいな。そのために頑張って曲作ってライヴしたり。

 業界の人に気に入られるための曲作りができていたら、
 7年もかからなかったかもしれないですね(笑)。

――そうやって作っていると、歌いたい歌というよりも、メジャーにいくための曲作りになったりはしませんでしたか?

真戸原:それはできないんですよね。だから、僕らが何を伝えたいかっていう想いがまだ弱いんちゃうかって。「これを伝えたい」っていう強い想いがあれば、それは業界とか関係なく伝わるんちゃうかと。業界の人に気に入られるための曲作りができてたら、7年もかかってなかったかもしれないですね(笑)。

――阿佐さんは焦りはなかったですか? まぁ、40までっていう長い目で見ながらも。

阿佐:ふっ(笑)。僕らは、今日何かが来てもなんとかできるような状況を、前の一日で作っておくようにして一日一日を重ねてきて、そうしたら7年経ってたというだけなので。焦りはなかったですね。

――なるほど。「ツバサ」はいつ頃の曲ですか?

真戸原:東京に出てきてから3年ぐらい経ったとき。リリースの10ヵ月ぐらい前ですね。

――だと、「これを伝えたい」っていうものがはっきりしてきたとき?

真戸原:そうですね。ストリート・ライヴをやったりして、東京にもちょっとづつ居場所ができてきて、なんとなく馴染んできたときに、ちょっと振り返ってみて。大阪から東京に出てきたっていうのは、メンバーにとってもめっちゃでかかったし。そん時の気持ちをもう一回歌にしたいなぁみたいな感じから始まったんですよね。

――「人はツバサを持つと自由になれるんだろうか?」というコピーの言葉がありますが。

真戸原:どうなんやろうな。なれるんですかね?

――自分達の作品から発したことに、自分達が問い掛けられちゃってます?

真戸原:ほんまそれ多いですよ。コピーについてもよく聞かれるんですけど、僕がつけたんじゃないので。何かに縛られながらも頑張る、みたいなところもあるやろうし。わからないですねぇ。

阿佐:答えはたぶん見つからないと思うんですよ、結局。自分らも考えることがあるし、聴いてる人もこのフレーズを聴いて、どうなんかなと思うかもしれないし。来年になったら変わってることもあるじゃないですか。一年の経験だったり。だからべつに答えはなくてもいいかなと思います。

取材・文●望木綾子




レコーディング

真戸原:レコーディング・スタジオに入って音を録るっていう作業は、ライヴに近いというか。できてるものを演る感じなので。録り自体はすごく楽しいです。問題は、その段階までにどこまで作っていけるかで。そこにすごい時間をかけますね。「君の声」は、聴いた人が近くに存在を感じられるような音にしてます。

季節感・温度感

真戸原:普通に生活していても、季節は感じますからね。音楽を作るときに特に意識しなくても、当たり前に感じることで。春っぽい曲にしようとか、夏っぽい曲にしようと思っては作らないですね。

阿佐:アレンジするときにはちょっと意識しますけどね。ギターだと音で表現しやすいし。

真戸原:「君の声」は春っぽいギター弾いてるね(笑)。

――温度感と言ったほうがピンと来ますかね?

真戸原:そうそう! 温度感とか空気っていうのは大事にしてしまいますね。一枚羽織ってる感じなのかそうでないのか、みたいな。それも阿吽でできてる気がします。

ライヴ

真戸原:最近、ライヴに対する考え方がどんどん変わってきてて。昔は、どっかでライヴを観て僕らを知ってくれた人がほとんどだったけど、今は、ライヴ以外で音を聴いた人がライヴを観に来てくれてる。だから、すごくライヴがやりたいなぁって思いますね。



真戸原:個人個人、今まで付き合ってきた人とのつながりがあって今があるっていう。アンダーグラフに関しては、もう絆っていうか、家族みたいなもんで。僕はそう思ってるんですけど。

阿佐:共同体か。

真戸原:組織ではないな(笑)。

中原:こうして長い間一緒にやってきてるんで、見えない何かで結ばれてるんでしょうね。

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