【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話067「Vtuberという言葉が消える日。アバターがエンターテイメントの標準になるまで」

4年ほど遡れば、ABBA Voyageでは人気絶頂期の若々しきメンバーがアバター(ABBAtar)としてステージに登場し、熱狂のパフォーマンスを繰り広げていた。実際に歌うのは現在のABBAだし、動くのもセンサーを付けた生身のABBAだけれど、ステージに立つのはデジタルアバターだった。また、ライブ活動に幕を下ろしたKISSにおいても、現在はアバターによるエンターテイメント活動を視野に入れた開発に余念がない。
荒い言い方ではあるものの、要するにミュージシャンそのもののデジタル化が水面下で猛烈な勢いで進んでいる。ミュージシャンは中の人、舞台に立つのはデジタルだ。この構造はいわゆるVtuberと同じものだけれど、ABBAtarが比較的早期に商業化の波に乗れたのは、モーションキャプチャーの劇的な進化が背景にある。現状ではドリフト問題(時間経過に伴う誤差の蓄積)も大きく改善され、激しいダンスにも追従してくれるまでに品質は向上した。
とはいえKISSのデジタル興行は未だ開発中にあり、アバターライブツアーの実現は、最新の計画でも2028年以降とされている。困難を極めているのは、おそらく彼らが楽器プレイヤーであるからだと私は思っている。人間の自然な動きをトレースする技術は実用レベルまで向上したけれど、楽器演奏をリアルに表現するのは、未だ困難だからだ。
演奏においては、そもそも楽器と指が接触しているのみならず、指が指を隠してしまうシーンが絶え間ない。つまりセンサーやカメラが指を追えず、その動きを正確に捉えることができないという。速いパッセージや細やかな運指は動きも速く、リアルタイム同期の処理が追いつかない。というか、ミリ単位の指の曲げ伸ばしや指の交差が追跡できていない。
例えばギタリストのピッキングや微細なフィンガリングのニュアンスは、アバターであれどリアルに表現して欲しいところでもあるし、趣味性の高いアーティストであればこそマニアを感嘆させるに欠かせないポイントになる。演奏データを蓄積しておくことで、フレーズを先読みしその運指をリアルタイムに再現するような技術は、おそらくAIとの連携も欠かせないわけで、開発には多大な時間と予算が必要になるだろう。妥協ポイントをどのあたりに置くかは、アーティストのアイデンティティの問題でもあるので、これで良しという雛形ができたとて、あまり機能しそうもない。
下記の動画は、現状最も進化しているギタリストVTuberのひとりであるCHACHAが公開しているもの。2023年7月頃のトラッキングの様子と、その2年後にはどこまで進化したかがよく分かる。
CHACHAのトラッキング技術は個人の試行錯誤によって実現されてきたもので、一般に入手できるものでもないのだけれど、この進化のスピードを思えば、ベースやドラム、キーボードへの横展開も容易に想像が付く。スティックワークやペダルワーク、鍵盤を上で踊る繊細な指先の動きまでリアルタイムで再現されるようになれば、ロックバンドのVtuber化が当たり前になってくる世界が見えてくる。
メンバー全員がアバターで活動し、ライブハウスとメタバースを同時にツアーで回る。ステージでは人間では不可能な高さまでジャンプし、炎の中でギターソロを弾く。ちなみにKISSのアバターは2.4mもの巨体で、圧倒的な存在感を放つらしい。
ロックバンドがここまで演奏できるのなら、「演じる」という行為そのものもアバターへ置き換えられる世界線もある。俳優はモーションアクターとして演技を担当し、画面に映るのはアバター。年齢や容姿に縛られず、20代の姿のまま何十年も同じシリーズを続けることもできる。人間を超えたゴブリンのような役も楽勝だし、主人公が毎週違う姿になる作品だって生まれるだろう。
視聴者は配信開始時に好きなアバターを選択し、同じストーリーを異なるキャラクターデザインで楽しむこともありそうだし、自分好みのビジュアルで恋愛リアリティーショーを再設計できる日が来るかもしれない。
バラエティ番組も同様だ。芸人は収録スタジオでネタを披露し、放送では全員が動物やロボット、妖精の姿になっているかもしれない。司会者は身長50メートルの巨人にもなれるし透明人間にもなれる。毎週姿が変わっても「誰が演じているか」は変わらない。面白いかは別にして、可能性は無限大だ。
もちろんスポーツ中継にも応用できる。実況席に現れるのがキャスターではなくアバターであれば、試合中には選手の横へ自由に飛び込み、プレーを真横から解説してくれるだろう。視聴者は自分の好きな位置へカメラを移動させながら観戦できるかもしれない。
音楽も演技もお笑いもスポーツも、人間が生み出す感情と熱量が価値であることに変わりはない。変わるのは「表現する器」だ。映画がモノクロからカラーになり、音楽がレコードから配信へ移ったように、演じるのが肉体であることがエンターテイメントの必須条件ではなくなるというわけだ。そもそも僕らはマンガやアニメに恋をし、勇気をもらい、溢れんばかりのエモを感じてきた。同じことだ。

演者は人間であり続ける。しかし観客が見るのは、その人間が選んだもうひとつの姿…何にでもなれる身体だ。これまでのエンターテイメントは「現実をどこまで再現できるか」を競ってきたけれど、今後は非現実性を自然にエンタメする方向へ舵を切ることになりそうだ。
今、Vtuberはその入り口に立っている。歌手がVへ移り、バンドがVになり、俳優も芸人もアバターをまとうようになったとき、「Vtuber」という言葉は残っているだろうか。おそらく残ってはいないだろう。だってそれはもはや特別な存在ではなく「エンターテイメントの標準」になっているのかもしれないから。
文◎烏丸哲也(BARKS)







