『ダッティ・ロック[最強版] 』 ワーナーミュージック・ジャパン WPCR-11717 2,400(tax out) 1 ダッティ・ロック・イントロ 2 シャウト(ストリート・リスペクト) 3 ギミー・ザ・ライト 4 ライク・グルー 5 ゲット・ビジー 6 ベイビー・ボーイ[withビヨンセ・ノウルズ] 7 トップ・オブ・ザ・ゲーム[feat.ラゼール] 8 ガンジャ・ブリード[feat.チコ] 9 コンクリート 10 アイム・スティル・イン・ラヴ・ウィズ・ユー[feat.サシャ] 11 インターナショナル・アフェアー[feat.デビー・ノヴァ] 12 キャン・ユー・ドゥ・ザ・ワーク[feat.セシール] 13 パンキー 14 マイ・ネーム 15 ジューキン・パニー 16 ギミー・ザ・ライト(パス・ザ・ドロ・ヴォイジャー・リミックス)[feat.バスタ・ライムス] 17 バブル[feat.ファーレンハイト] 18 シェイク・ザット・シングス 19 エサ・ロカ[feat.トニー・タッチ&R.O.B.B.] 20 パンキー(スパニッシュ・バージョン) 21 サムファイ・アイ エレファント・マン ショーン・ポールに続くVP/ATLANTICレーベルの第3弾としてダンスホール・レゲエ界の“怪物”がついにメジャー・デビューを果たした。その名も“エレファント・マン”。2003年12/17に日本盤もリリースされたが好調なセールスを記録中! ヒップホップ/R&Bとレゲエのクロス・オーバーは必聴だ! 『グッ・トゥ・ゴー』 WPCR-11763 2,400(tax out) | | ――ヒップホップを聴いて育った? ショーン:まわりにあるのはレゲエだった……。車の中で一日中聴いている。家にいるときは、ラジオで聴く。テレビに登場するのもレゲエが多い。だから、レゲエに影響を受けている。ダンスホールを始めたのは12歳くらいかな。ティーンエイジャーになりかけのころだった。いろんな連中と一緒に、かなりのめり込んだよ。ショウがだんだん大掛かりになって、開催ペースも早くなった。きっかけはそんな感じさ。今も、ビッグなショウには楽しいヴァイブを感じる。 ――それで、ヒップホップと出会ったのは? ショーン:ジャマイカでヒップホップ・シーンがスタートした。ブレイクし始めたんだ。俺のおばさんがディスコテックを持っていて、サウンドシステムがあった。サウンドボックスを持っている仲間が何人かいて、「Get Busy」のビデオのシーンにあるような感じの、レコードをスピンさせてショウをした。俺たちはいろんな会場を廻ってプレイし、みんながマットを持ち込んだ……'81年か'82年ころの話さ。連中はニューヨークに行って本場のシーンを見てる。今は消えたかもしれないけど、ビートボックスやブレイクの類……そのあと、ヒップホップがジャマイカに入って来たんだ。最初はあまり注目されなかった。“あぁ、そう。俺たちはダンスホールだ!”って。でも、俺たちはヒップホップに影響を与えていると思った。ヒップホップを作ったメンバーのひとりが、クール・ハークだったから。彼はジャマイカ生まれでブロンクスに移住した。ジャマイカで起きたサウンドシステムの現象を知ってたんだ。俺たちは親近感を感じていた。それから、6、7年後にケーブルテレビがジャマイカに入ってきて、ヒップホップがこれまで以上にビッグになった。ヒップホップ・シーンはジャマイカ全体に広がり、今ではヒップホップとダンスホールが互角に争っている。そういった理由で、ジャマイカのアーティストたちは、ほとんど同じレベルだと感じている……カリブ諸国とか、米東海岸、ダンスホールを聴くアメリカ各地のアンダーグラウンド・マーケットに貢献してるんだ。俺は'96年から、この辺の地域を旅行している。少なくとも月に3回は行く。もちろん、ロンドンとか、ヨーロッパの国にもね。以来、この業界に身を置いてるけど、以前にも増して成長していると思う。今は、ますます巨大になってるよ。 ――DJを始めたのはいつ? ショーン:みんな学校でやっていた。エミネムじゃないけど、“ライムをキープして、次のサイファー(何人かで輪になってラップをすること)に入り込んだ”って。誰もが自分たちのサイファーを持っていた。でも、シリアスじゃなく、ジョークみたいな感じだった。どんな子でもできるんだ。みんな学校で机を叩いたり、メロディで遊んでる。俺は水泳をやってたから、いろんな大会で、じっとスタンドに座ってる間、そうやって遊んだ。練習したんだ。そのうち、ちょっと本格的になって、自分で曲を書き始めた。“おもしろい曲を作ってやろう。できるかどうかやってみよう。みんなに伝えたいことがたくさんある”って。俺にとって、自分が表現したいものを発表し、人々に自分の存在を伝えるベストな方法は、曲を書くことだった。俺はガンガン書き始めた。そうやって入っていったんだ。 ――音楽を通してキッズたちとコミュニケートする? ショーン:そういうのは、あまり……。でも、曲を書き始めたころは、関心のある重要なテーマを扱っていた。ジャマイカで多発している暴力事件とか。社会と変革についてたくさん曲を書いた。そうやって練習して、ステップアップした。けれど、プロデューサーとの出会いで、違った形になった。“説教がましいのじゃなく、楽しいエンターテインメントをテーマに”って。それで、女性にウケる曲やパーティで楽しめるトラックをたくさん書き始めたんだ。そういう曲を発表している。 ――子供のころ、母親から30ドルでキーボードを買ってもらったということですが。 ショーン:13歳のころにね。俺は水泳をやっていた。おふくろは俺をピアノのレッスンに通わせようとした。素晴らしいミュージシャンになると思ってね。俺はやりたくなかった。クラシックの弾き方とか、楽譜の読み方とか、そういったのばかりで、俺は自分で好きなの曲を選んで弾きたいと思った。だけど、“それは違う。この手はこうして、この指はこのキー”みたいに言われるんだ。でも、そのうち自分自身でできるというのが分かって、“こんなことしたくない”と思うようになった。それで“キーボードを買って”とおふくろに頼んだんだ。有名なプロデューサーがテレビのインタヴューで、使い方を話しているのを見たことがあった。それでコンピュータとドラムマシーン、キーボードがあれば、どんな曲でも思いどおりに作れると思った。これがきっかけで、今でも同じように曲を作っている。同じサウンドで、どんな曲でもできる。すごくおもしろい。“音楽学校や教室で教えてもらうんじゃなく、自分の思い通りのサウンドが作れる”って感じだ。成長過程では、学習が大切だと思うけど、俺はそういう段階じゃなかった。その点ではちょっと浅はかだったと思う。“俺はこうしたいんだ”って態度だったから。欲しいと思ってから1年後、俺の誕生日に、外国の製品がたくさんある日曜日のフリーマーケットでおふくろが買ってくれた。当時、1,500ジャマイカ・ドル。米ドルで30ドルくらい。ドラムセクションが付いたヤマハの小型キーボードだった。それでちょっとしたダンスホールのリズムを作ると、それだけで自信が出て、数年後には作曲を始めた。最初はプロデューサーになろうと思った。でも、徐々に曲作りにのめり込むようになって、至福を感じるようになった。それで、目標が変わったんだ。 ――レゲエ・グループのサード・ワールドと出会ったのはいつ? 運命の出会いだったのでは? ショーン:上流階級が住む場所は狭いんだ。俺は山の手の出身。サード・ワールドの大半がそこで活動していた。親父がギター・プレイヤーのキャット・クアーと長年の知り合いで、子供のころから“デモができたら、聴かせてくれ。キャット・クアーのところに持っていくから”と言われていた。彼とは特に会合を持ったわけじゃなく、向こうが曲を聴いて“いい声だ。ライティングも気に入った。おいで”という感じだった。ライティングのレベルがよかったんだろう。俺は教育を受けた若者で、ダンスホールにいるほかの連中とは違っていた……。別に彼らが悪いわけじゃないけど、教育を受けてないから、物事に対する概念とか、思考が一定のレベルに達していないんだ。キャットは俺の中のそういう点を見抜いたんだと思う。今では教養のあるアーティストが大勢いて、複雑な細部を描いた曲を書いてるけど、当時は違った。彼らの中では俺が突出してたから、プロデューサーたちの目に止まったんだろう。イメージを使って、女の子にウケる、ファッション性のある曲をもっと書けと言われた。いずれにしても、俺にはそれができると思った。キャット・クアーとの出会いはそんな感じさ。 ――初期の時代にサード・ワールドがプロデュースしたデモはある? ショーン:あるよ。今でもベース・プレイヤーのルパート・ベントとは一緒にいる。最初のころ、彼のスタジオに出入りしていた。彼はサード・ワールドのメンバーだし、過去によく曲を書いていた。俺はグループと一緒にスタジオで作業して、彼らがいくつかトラックをプロデュースしてくれた。ある日、シャギーのマネージャー、ロバート・リビングストーンがスタジオに来て、そうのうちの1曲を聴いたんだ。すると彼は“スーパー・キャットみたいなサウンドだ。俺はかつてスーパー・キャットのマネージャーをしていた。いい曲だ。強い関心を引く曲だ”と言って、試作をプレスして、ジャマイカ中のラジオ局へ持っていった。それを機に、ラジオで勢いよくかかったんだ。ルパートとサード・ワールドのおかげだよ。数年の前のことさ。まだデモを作っていたころで、きちんとプロデューサーの手にかかる前にラジオでプレイされた。それから2年して、'96年、俺は自分のマネージャーのスタジオへ。彼は新人のプロデューサーで、サイドビジネスとして業務をこなしていた。ジャマイカのラジオに売り込んで、プロデュースした曲をひとつ、ラジオで流したいと思っていた。彼は'96年、とうとうそれをやってのけた……「Baby Girl」だ。ジャマイカが広い範囲でショーン・ポールを聴いたのはそのときが初めてだ。 ――リリックはダンスホールだけど、ヒップホップの言葉が混ざっている……最初からそうだった? ショーン:最初のころは、ちょっと違った。曲を書こうとすると、“もっとハードコアにした方がいい”って言われたんだ。ダンスホールはいろいろな段階を経ている。鈍い音楽と思われていたし、性的な意味や女性に対するコメントばかりが目立った。'80年代のころだ。それから、少し変化して、重要な時期を迎える。'90年代初期にラスタファリアンのDJが参入して来た。俺がこの業界に飛び込む'90年代半ばまでには、こうしたスタイルが全部ミックスされていた。だから、いろんなコンセプトや曲が出回っていた。ヒップホップにのめり込んだころ、俺は両者の溝を埋めようとした。以来、そういうことに取り組んでいる。今思うと、たくさん旅行したことで、特殊な言い回しが身についた気がする。クラブでは、タバコを吸うときに“ツリー(木、樹木)をやろう”って言うんだ。その言葉を曲の中に入れた。ジャマイカでは、あまり言わない……ヒップホップは人気があるし、世界中に広まっているから、言ってもいいんじゃないかな。でも、普段は、そんなふうには言わない。旅行とか、他人とのやり取り、クラブでの会話や遊びからハマった感じだ。アメリカにもいたしね。 ――本来の自分と違うことをしているではという感じはある? ショーン:分かってほしんだけど、ジャマイカでは、俺は目立つんだ。他とは違うから。貧民街の出身じゃなく、恵まれた環境で育ち、教育を受けた。そのことにはいつも感謝している。 ――大学では何を? ショーン:ホテル経営学を2年ほど勉強した。ホテルについてすべてを学ぶんだ。旅行産業で経済が成り立ってる国では、そういった学問がある。会計学とか、いろいろとね。あと、料理の仕方も学んだ。この課程では、何がすごいかというと、3日おきに6時間、大型の業務用キッチンで実習するんだ。料理番組の『Emeril』をテレビで観たことがあれば、分かるよね。ああいうのを学校で使った。大学ではそんなことばかりしていた。それで料理の腕が身に付いたんだ。 ――女性たちのために料理をテーマにした曲はないの? ショーン:うん……あれ以来、あまり料理してないんだ。料理はできるし、特別な機会にはするけど……今年は誕生日にバーベキューをした。大したことじゃないんだけどね。たいていは、外食で済ませる。スケジュールが過密だから“ヘイ、ベイビー、君のために腕をふるうよ”ってわけにはいかないんだ。俺のスタイルは違う。でも、曲の中で“ベイビー、俺は料理ができる”ってのはちょっと怖いな。分かる? ――ゆっくりと積み上げてきてるけれど、それが成功へのプラン?スローに歩むことが。 ショーン:多くのことを学んだ。ビジネスについてたくさん覚えた。19歳のころ、決心したときには知らなかったようなことをね。“ヨー、俺はこいつに関しちゃスゴいんだ。高校時代にずっとやってたから、これから本格的にやってくつもりだ。詳しくは分からないが、クレイジーな業界ってことは知ってる。浮き沈みが激しいし、妬みや陰口がひどい。でも、とにかくやらせてくれ”って感じだった。とりあえず、始めたんだ。“ヨー、やろうぜ”って。最初はいろいろと問題があった。でも、自分で切り抜けていかなければならない。'96年に曲が出た後、最初の3年間は、そういう状況だった。誰が何をするのか、俺のためになる人は誰か、俺はどうすればいいか、どの程度関わるか、そういったのを自分の頭で考え解決しようとした。結局、この業界でどうにかしたいと思ったら、いろいろな段階を経なければならない。何であれ、そうなるときは、なってしまう。今でも、仕組は同じだよ。 (C)LAUNCH.com <<前のページに戻る | |