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本名、宮本典子。銀座生まれ。生っ粋の江戸っ子である。
パフォーマーとしての本格的なデビューは赤坂にあった伝説のディスコ、「MUGEN」でのこと。ただし、シンガーとしてではない。当時は「ゴー・ゴー・ガール」と呼ばれたダンサーとして、である。まだディスコが特権的遊興人達にのみ許された秘境の地だった頃の話だ。
シンガーとしての初お披露目もその「MUGEN」でのこと。そこに数多やって来るファンク・バンドのパフォーマンスを日常的に体感してきた彼女はスリー・チアーズというバンドを結成する。ヴォーカルにグッチ祐三、ドラムにはウガンダ、7ピースによるこのバンドはグラハム・セントラル・ステーション、ルーファスなどのコピーを中心に日本人による日本唯一のファンク・バンドとして熱狂的なファンを獲得する。やがて彼女達は「MUGEN」を巣立ち、大手メーカーとのディールまで手中にするが、彼等の方向性とメーカーの思惑とが結局合致せず、空中分解。mimiはソロとしての活路を見出し、鈴木勲とのコラボレートによってジャズ・フュージョン・シンガーとして本格的なデビューを果たす。エキゾチックな風貌、日本人離れしたヴォカリゼーション、彼女の特異な存在はジャズ界に一石を投じた。その後スタジオ・ワークを経て、歌謡界の中でも一際眩しい光彩を放つ存在となっていく。ヒット曲も数多く、取り分け、「エピローグ」、「ラスト・トレイン」は広く知られたヒット曲であり、筒見京平、松任谷由美、笹路正徳ら当時の日本を代表するクリエイター達とガップリ四つに組んだこうしたソウルフルな作品の数々は薄っぺらいヒット・ポップスと一線を画する、日本の歌謡曲の質的向上を大きく促す名曲達でもあった。レコード大賞の新人賞の受賞は言うに及ばず、東京音楽祭で実は最も権威のある賞とされる外国人審査員団賞を受賞、ディオンヌ・ワーウィックからサインもせがまれたという逸話も残す彼女。しかしながら、誰もが羨む真の栄誉をいとも簡単に手に入れてしまったにもかかわらず、彼女は日本国内における芸能界チックなイメージ・コントロールや、ビジネス最優先のマネージメントに疑問を持ち始め、その結果、それまでの歌手活動に別れを告げ、90年に単身での渡米を決意する。自分の歌を、全てがシナリオ通りに進行する日本でではなく、パフォーマーとしての絶対的な力量で評価されるアメリカで試そうとしたからだ。
日本で知り合ったグロリア・ジョーンズの元を訪れ、渡米後数年は西海岸を活動の拠点としてキャリアを一から積み直し始める。その後、グロリア・ジョーンズを介して、丁度リユニオンをプランしていたラリー・グラハム(元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのベーシストにしてチョッパー・ベースのパイオニア)、ジョージ ジョンソン(ブラザース ジョンソンのギタリスト)率いるグラハム・セントラル・ステーションのリード・シンガーのオーディションを受けるチャンスを掴む。スリー・チアーズ時代に彼等のレパートリーを全てと言っても言いほどコピーしていた彼女はすぐにラリーの注意を引いてメンバーに抜擢。全米ツアー/ワールド・ツアーに参加するのはもちろんのこと、92年には来日公演も実現し、mimiの名で凱旋した宮本典子に日本のファンは彼女がアメリカに渡った理由をこれ以上ない状況の中で知らされることになる。
これと前後して、エディ・マーフィーのバンド(サイケデリック・ソウル)のヴォーカルとしても活躍(モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで行われたエディの初ライヴにも参加、またエディと一緒に缶コーヒー「ビーンズ」のコマーシャルに出演したのもこの頃)、それから間もなくすると今度はブラザース・ジョンソンからもラヴ・コールが掛かる。更には、ミシシッピ・マスクワイアのソリストとしての活動もスタート。ミシシッピ・マスクワイアはmimiをフィーチャーして来日公演を行い、その模様はNHKを通じて全国放送もされた。
mimiは、この時期にブラザース・ジョンソンのメンバーとしてのみならず、"Always There"のヒットで知られるサイド・エフェクトのメンバーとしても活動、東京芝浦のソウル・トレイン・カフェのこけら落としではお忍び来日も果たし、語り草になるほどのパフォーマンスを日本のファンの前で披露している。
その少し前、ラリー・グラハムのトータル・プロデュースでmimi名義としては初となるアルバム・レコーディングの話も持ち上がる。しかし、ラリーのプリンスが持つレーベル「ペイズリー・パーク」への移籍等の影響もあって、プロジェクトは実現しなかった。ところが、彼女のことをあらゆる面から支えてきたレス・ピアス、レックス・サラスらのバックアップで改めてプロジェクトは始動、そうして完成したのが99年のアルバム「JOY LOVE HAPPINESS」だ。日本ではアルバムのタイトル・トラックである「JOY LOVE HAPPINESS」が大ヒット、更に同年の暮れには2枚目のアルバム用に録音したシンディ・ローパーのカヴァー「タイム・アフター・タイム」がマツダのカペラ・ワゴンのコマーシャル・タイアップ曲としてヒットを記録。2001年の1月にはセルフ・タイトルとなるセカンド・アルバムがリリースされ、それを受けて同年4月には凱旋ジャパン・ツアーも行われ、そのファイナルとなった赤坂ブリッツでのライヴは満員札止めとなった。
その後、アメリカに帰国してからは、ルイス・ジョンソンが復帰したブラザース・ジョンソンの全米リユニオン・ツアーに参加、それとほぼ同時にジャパン・ツアーでmimiバンドのドラムとして彼女を支えてきたジェフリー・サトルズのプロデュースで3枚目のアルバムのレコーディングを始め、全てライヴ・インストルメンツで演奏されたアルバムは彼女と所縁の深いカヴァー作品を思い入れタップリに歌うものとなった。このアルバムのレコーディングにはラリー・グラハムも急遽駆けつけ、グラハム・セントラル・ステーションのカヴァー”Hair”ではラリー本人がヴォーカリストとして参加してくれている。
パフォーマーとしての本格的なデビューは赤坂にあった伝説のディスコ、「MUGEN」でのこと。ただし、シンガーとしてではない。当時は「ゴー・ゴー・ガール」と呼ばれたダンサーとして、である。まだディスコが特権的遊興人達にのみ許された秘境の地だった頃の話だ。
シンガーとしての初お披露目もその「MUGEN」でのこと。そこに数多やって来るファンク・バンドのパフォーマンスを日常的に体感してきた彼女はスリー・チアーズというバンドを結成する。ヴォーカルにグッチ祐三、ドラムにはウガンダ、7ピースによるこのバンドはグラハム・セントラル・ステーション、ルーファスなどのコピーを中心に日本人による日本唯一のファンク・バンドとして熱狂的なファンを獲得する。やがて彼女達は「MUGEN」を巣立ち、大手メーカーとのディールまで手中にするが、彼等の方向性とメーカーの思惑とが結局合致せず、空中分解。mimiはソロとしての活路を見出し、鈴木勲とのコラボレートによってジャズ・フュージョン・シンガーとして本格的なデビューを果たす。エキゾチックな風貌、日本人離れしたヴォカリゼーション、彼女の特異な存在はジャズ界に一石を投じた。その後スタジオ・ワークを経て、歌謡界の中でも一際眩しい光彩を放つ存在となっていく。ヒット曲も数多く、取り分け、「エピローグ」、「ラスト・トレイン」は広く知られたヒット曲であり、筒見京平、松任谷由美、笹路正徳ら当時の日本を代表するクリエイター達とガップリ四つに組んだこうしたソウルフルな作品の数々は薄っぺらいヒット・ポップスと一線を画する、日本の歌謡曲の質的向上を大きく促す名曲達でもあった。レコード大賞の新人賞の受賞は言うに及ばず、東京音楽祭で実は最も権威のある賞とされる外国人審査員団賞を受賞、ディオンヌ・ワーウィックからサインもせがまれたという逸話も残す彼女。しかしながら、誰もが羨む真の栄誉をいとも簡単に手に入れてしまったにもかかわらず、彼女は日本国内における芸能界チックなイメージ・コントロールや、ビジネス最優先のマネージメントに疑問を持ち始め、その結果、それまでの歌手活動に別れを告げ、90年に単身での渡米を決意する。自分の歌を、全てがシナリオ通りに進行する日本でではなく、パフォーマーとしての絶対的な力量で評価されるアメリカで試そうとしたからだ。
日本で知り合ったグロリア・ジョーンズの元を訪れ、渡米後数年は西海岸を活動の拠点としてキャリアを一から積み直し始める。その後、グロリア・ジョーンズを介して、丁度リユニオンをプランしていたラリー・グラハム(元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのベーシストにしてチョッパー・ベースのパイオニア)、ジョージ ジョンソン(ブラザース ジョンソンのギタリスト)率いるグラハム・セントラル・ステーションのリード・シンガーのオーディションを受けるチャンスを掴む。スリー・チアーズ時代に彼等のレパートリーを全てと言っても言いほどコピーしていた彼女はすぐにラリーの注意を引いてメンバーに抜擢。全米ツアー/ワールド・ツアーに参加するのはもちろんのこと、92年には来日公演も実現し、mimiの名で凱旋した宮本典子に日本のファンは彼女がアメリカに渡った理由をこれ以上ない状況の中で知らされることになる。
これと前後して、エディ・マーフィーのバンド(サイケデリック・ソウル)のヴォーカルとしても活躍(モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで行われたエディの初ライヴにも参加、またエディと一緒に缶コーヒー「ビーンズ」のコマーシャルに出演したのもこの頃)、それから間もなくすると今度はブラザース・ジョンソンからもラヴ・コールが掛かる。更には、ミシシッピ・マスクワイアのソリストとしての活動もスタート。ミシシッピ・マスクワイアはmimiをフィーチャーして来日公演を行い、その模様はNHKを通じて全国放送もされた。
mimiは、この時期にブラザース・ジョンソンのメンバーとしてのみならず、"Always There"のヒットで知られるサイド・エフェクトのメンバーとしても活動、東京芝浦のソウル・トレイン・カフェのこけら落としではお忍び来日も果たし、語り草になるほどのパフォーマンスを日本のファンの前で披露している。
その少し前、ラリー・グラハムのトータル・プロデュースでmimi名義としては初となるアルバム・レコーディングの話も持ち上がる。しかし、ラリーのプリンスが持つレーベル「ペイズリー・パーク」への移籍等の影響もあって、プロジェクトは実現しなかった。ところが、彼女のことをあらゆる面から支えてきたレス・ピアス、レックス・サラスらのバックアップで改めてプロジェクトは始動、そうして完成したのが99年のアルバム「JOY LOVE HAPPINESS」だ。日本ではアルバムのタイトル・トラックである「JOY LOVE HAPPINESS」が大ヒット、更に同年の暮れには2枚目のアルバム用に録音したシンディ・ローパーのカヴァー「タイム・アフター・タイム」がマツダのカペラ・ワゴンのコマーシャル・タイアップ曲としてヒットを記録。2001年の1月にはセルフ・タイトルとなるセカンド・アルバムがリリースされ、それを受けて同年4月には凱旋ジャパン・ツアーも行われ、そのファイナルとなった赤坂ブリッツでのライヴは満員札止めとなった。
その後、アメリカに帰国してからは、ルイス・ジョンソンが復帰したブラザース・ジョンソンの全米リユニオン・ツアーに参加、それとほぼ同時にジャパン・ツアーでmimiバンドのドラムとして彼女を支えてきたジェフリー・サトルズのプロデュースで3枚目のアルバムのレコーディングを始め、全てライヴ・インストルメンツで演奏されたアルバムは彼女と所縁の深いカヴァー作品を思い入れタップリに歌うものとなった。このアルバムのレコーディングにはラリー・グラハムも急遽駆けつけ、グラハム・セントラル・ステーションのカヴァー”Hair”ではラリー本人がヴォーカリストとして参加してくれている。