HACHIがアルバム『Close to heart』を通して拡張する「世界」

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バーチャルの世界もずいぶん多様化してきた。大手ライバー事務所を筆頭に、多くのタレントがリアルワールドにも様々な形で影響を及ぼしている。コンビニに行けば製菓会社とのコラボ商品が並び、街を歩けば何かしらのイベントに関連した専用のブースが設けられている。インターネットを基軸として、この数年の電脳空間は文字通り次元を超えて拡大し続けてきた。

そんな激動のシーンにおいて、ひときわ輝きを放つシンガーがいる。今年活動3周年を迎え、8月11日にアルバム『Close to heart』をリリースしたHACHIだ。10月9日には彼女史上最大規模のソロライブが、SHIBUYA Spotify O-EASTにて開催される。また、初の海外公演として、11月19日には台北のClapper Studioでもライブを行う。

破竹の勢いで活躍の場を広げる彼女は、複眼的かつコンセプチュアルにリスナーのハートに寄り添ってきた。“Close to heart”というフレーズは今回リリースされたアルバムのタイトルだが、デビューシングル「光の向こうへ」(2020年)からして我々の孤独に付き合ってくれる内容だった。



同楽曲のプロデューサーを務めた澁江夏奈や、もはや盟友と言って差し支えない海野水玉をはじめ、HACHIは今日までに様々なアーティストと共作を重ねている。

本作『Close to heart』にも素晴らしいミュージシャンがクレジットされているので、本稿ではそれぞれの楽曲に対し、各プロデューサーの角度から迫りたい。ササノマリィ、tee tea(DURDN)、春野、海野水玉らが参加した今作は、まさしく昨今のバーチャルワールドの拡張よろしく、複眼的な可能性を秘めている。インターネットの大海に舞い降りた稀代のシンガーは、アップリフティングなダンスポップとどこか寂寥感のあるシンセポップ、さらにはアブストラクトなビートミュージックをまとい、「私」や「あなた」のすぐそばで歌をうたう。





▪️ササノマリイのプロデュースによる「Deep Sleep Sheep」



“役目を終えたアンドロイドの最後のひとりごと”というテーマは、リアルワールドにおいては不確かな存在であるVSingerが歌うことによって説得力が増す。そしてそれを作ったプロデューサーは、ボカロPとしての出自があるササノマリイだ。この時点で強い物語性を感じ、なかばこのふたりの邂逅は必然だった気さえする。が、表象としての繋がり以上に、両者の間にはアーティストのスタンスに相似がある。彼女たちは宛がわれる枠に収まることなく、独自の路線を現在進行形で貫いてきた。

かつてボカロ界隈は、何度か「ボカロっぽい」ものにシュリンクしてしまう可能性があった。具体的に言えば、音数が多めでBPMが速く、ソリッドなギターが特徴的なプロダクションである。コマーシャルなことを考えれば、後続のプロデューサーもその道を進むことだってできた。けれども、インターネットにうごめく才能たちはその選択をしなかったのだ。今でも「ボカロっぽい」というイメージが先行する場合があるが、界隈の実態は途方もなく広がり続けている。

バーチャルの世界にも「VTuber」や「VSinger」といった呼称が存在し、多くのライバーがそれぞれに配分されるイメージからどうやって外れてゆくか、あるいはその役割をまっとうするのか、といった選択を迫られているように見える。楽曲をカバーするにしても、明らかに定番が生まれつつあり、バーチャル世界の歌い手に「求められていること」が増えてきた。

Lo-Fiなエレクトロニカ/ビートミュージックを起点に自身の音楽を拡張するササノマリイ、圧倒的な歌唱センスと対応力であまたの音楽ジャンルを乗りこなすHACHIは、それぞれがそれぞれの形で宛がわれるイメージを打破してきた。「Deep Sleep Sheep」はそんなフロントランナーたちが交差する、モダンなビートミュージックである。


▪️春野のプロデュースによる「さよならfrequency」




『Close to heart』に対し、2000年代のR&Bとの共振を指摘する声を度々目にする。とりわけ宇多田ヒカルが重要なインスピレーションであることは、8月11日に配信された「ハニカムステーション(歌枠)」内でHACHI本人も明かしている(動画の37:55~)。また、かねてより彼女は自身の歌枠などでかの御大の楽曲をカバーしてきた。歌い方やリズムの取り方など、テクニカルな部分へのリスペクトを感じるが、精神性にも共通項を見出すことが出来よう。宇多田もまた、自身の音楽に陰影があるアーティストだ。たとえば、アルバム『BADモード』(2022年)に収録されている「Find Love」などはディープハウスを下敷きにしながら、「歪な自分」にフォーカスしている。「教室の誰も気付かなかったこと 大事にされなくても、大事なもの」について歌っているわけだ。かたや「わたし」や「あなた」のハート、すなわち我々個人の孤独に向けて歌をうたうHACHI。なんだかこの2人は、すごく近い場所にいる気がしないだろうか。ダンスミュージックを、いわゆる“陽キャ”だけのものにしなかった功績は、極めて大きいと感じられる。



で、先述の歌枠において、楽曲の名前を上げて宇多田からの影響を明言されたのが、シンガーソングライターの春野がプロデュースした「さよならfrequency」だ。春野もまた、仄暗い底の方から音楽へアプローチする作家である。「Kidding Me」や「Drawl」を聴くと、彼のパーソナリティの一端がわかる。今年の2月には「Venus Flytrap」をリリースし、客演に佐藤千亜妃を迎えた。なお、佐藤は今年の初めにリリースした「タイムマシーン」において、宇多田ヒカルの「Automatic」をサンプリングしている。

これらの繋がりが本作の中でどこまで計画されたものかは定かではないが、素敵な関係性ではないだろうか。宇多田ヒカルを巡る因果が、『Close to heart』の中で息づいている。


▪️tee teaのプロデュースによる「まなざし」、「いつまでも」、「Level off」、「空が待ってる」


トラックメイカーのSHINTAとトップライナーのyaccoによるプロデュースデュオ・tee teaが、韓国人シンガーbakuを迎えて結成されたDURDN。彼らの出現は、ここ2年間の音楽シーンにおける最大のサプライズのひとつだった。ディスコやガラージ、R&Bなどを自在に横断し、結成2年目にして破格の活躍を続けている。

そんなtee teaの2人が、今作では参加アーティスト中最多の4曲を制作した。DURDNの楽曲は概して“インディーダンスポップ”といったニュアンスだが、その実力はまったく底が知れない。リードトラックの「まなざし」はストリングスやピアノがスケール感をもって使用され、たとえばオーチャードホールのような場所で鳴らされる様子が十分に想像できた。かと思えば、「いつまでも」ではDURDNで実践されているようなガラージ的テクスチャーをまとい、4つ打ちを基調としたサウンドが展開される。「Level Off」は、曲中にはっきりドロップがあるMarshmello的ビッグルームだ。「空が待ってる」には、『Ghost Stories』期のColdplayを彷彿とさせるシネマティックな魅力がある。

そしてそれらすべてに対応するHACHIは、やはり不世出なシンガーと言えるだろう。これだけコンセプトやテクスチャーが異なる音楽を、ひとりで表現しきってしまうのだ。様々なサウンドスケープを実現しながらアルバムの世界観に破綻がないのは、ひとえに両者のクオリティの高さゆえだろう。HACHIとtee teaは今回が初めてのコラボレーションだが、実に可能性を感じる共作プロジェクトだった。


▪️海野水玉のプロデュースによる「ビー玉」と「HONEY BEES」



HACHIのセカンドシングル「Rainy proof」から始まる海野水玉とのコラボレーションは、「夜」をコンセプトにした連続リリースプロジェクトを経て、『Close to heart』のリードトラック「ビー玉」と「HONEE BEES」に繋がっている。記事の冒頭で述べた2人の関係性の深さは、楽曲のクオリティにそのまま直結している。

これまでに海野は、「Rainy proof」や「バスタイムプラネット」のアンセムのほか、「ばいばい、テディベア」や「八月の蛍」など、特定のモチーフを通してそこからイメージをスケールさせる楽曲を制作してきた。その季語的なアプローチによって、曲の背後にある寂しさや切なさがリスナーの胸に迫る。「ビー玉」はその最たる例と言ってよいだろう。この歌詞の内容とHACHIの歌声の素晴らしいマリアージュは、やはりこれまでのタッグで培ってきたものの集大成だ。

そして個人的に、『Close to heart』の中で最も毛色の違う魅力を備えていると感じたのが、アルバムのラストを飾る「HONEY BEES」である。孤独の内省を超えて、ベクトルが明らかに外側へと向かっている。ここに“ある楽曲”の再構築を感じるのだ。それがAviciiの「Wake Me Up」(2013年)。カントリーとビッグルームがミックスされた同曲は、サウンドプロダクションとしても「HONEY BEES」に通ずるものがある。そしてこの曲もまた、孤独や苦悩、またはそれによる葛藤を歌っている。人に理解されない自分を、「それでいいんだ」と肯定するのが「Wake Me Up」だ。対して、孤高のわたしに肩を組んでくる気安さを持っているのが「HONEE BEES」なのである。「ただひとりの君であれ」と歌いつつ、「僕らひとつの渦になる」とも言っているのだ。孤独な状態に置かれたわたしを、より発展的に捉えているように感じられる。

その意味で「HONEY BEES」は、28歳の若さで急逝した天才に向けて、日本のインターネットから台頭してきた2人の異才によって送られた切実なラブレターとしても解釈できるような気がする。



最後に試論として書いておきたいのだが、日本のインターネットから派生したダンスミュージックは、「リスニングミュージック」として発展してきたように感じる。たとえばヨーロッパのテクノやハウスは、シングルやEPとして売られるケース、すなわちその単体で“人を踊らせるツール”として解釈される場合が間々あるが、「HONEY BEES」はアルバムのラストを飾る必然性があるように思われる。本作のテーマ性と、それが一気に外側に向かって拡散されてゆくスペクタクルは、1曲目から順番に聴くことによって発揮される印象を受けた。アルバムに収録されている楽曲がそれぞれの役割をまっとうするような個性は、一連の流れの中でこそ輝く。

『Close to heart』は、サブスク全盛の現在(今後もまだまだ成長しそうだが)において、アルバムというストーリーの素晴らしさを再確認させてくれた。そういった意味でも、本作は時代が音楽そのものに宛がってくる役割に対して抗おうとしているのかもしれない。

HACHI 2ndアルバム『Close to heart」


1. Deep Sleep SheepLyrics / Composition / Arrangement:ササノマリイ
2. まなざしLyrics / Composition / Arrangement:tee tea
3. ビー玉Lyrics / Composition:海野水玉
Arrangement:出羽良彰
4. いつまでもLyrics:yacco
Composition / Arrangement:tee tea
5. さよならfrequencyLyrics / Composition / Arrangement:春野
6. Level offLyrics:yacco
Composition / Arrangement:tee tea
7. 空が待ってるLyrics / Composition / Arrangement:tee tea
8. HONEY BEESLyrics / Composition:海野水玉
Arrangement:Seiji Iwasaki

デジタル配信中(https://linkco.re/xPAgr3vB)
CDパッケージ販売中(https://booth.pm/ja)

▪️特別仕様盤
5,000円税込
CD+特典
特殊紙三方背スリーブケース仕様
特典:記念カード Close to heart ver.(シリアルナンバー入り)

▪️通常盤
2,500円税込
CD only

<HACHI東京・台湾ツアー「Close to heart」>


日本公演:2023年10月9日(月・祝)SHIBUYA Spotify O-EAST
台湾公演:2023年11月19日(日)TAIPEI Clapper Studio

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