【インタビュー】若尾圭介、ボストン響オーボエ奏者が奏でるオールフレンチ・プログラム

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アメリカ五大オーケストラの一つである、ボストン交響楽団の準首席オーボエ奏者を務める若尾圭介が、久々の作品となる『若尾圭介~フランス・オーボエ作品集~』を4月にリリース。彼の人柄を物語るような温かく、優しいオーボエの音色が全篇にちりばめられたこの作品は、何度もリピートしたくなる、心に染み渡る佳作だ。そんな彼がオーボエと出会ってここに至るまでのエピソードをたっぷり語り尽くしてくれた。

■なぜ野球をあきらめてオーボエを選んだのかよくわからない
■オーボエ奏者になるよりも絶対に野球選手になりたかったのに


 ▲『若尾圭介 in パリ~フランス・オーボエ作品集~』
──若尾さんはもともと野球少年で、そこからオーボエに目覚めていったそうですね。オーボエに出会ったのも、ランニングしていたグラウンドのそばに日本フィルハーモニーの練習場があったことがきっかけとか。

若尾圭介(以下、若尾):そう。中学一年の時に、国立オリンピック記念青少年総合センターで、関東を代表する運動能力を持つ生徒が集まって、一緒に生活をしながら4日間の体力測定をしたんです。そのグラウンドの横に日フィルの練習場があってね。僕は小学4年生からリコーダーが好きでよく吹いてたんですが、オーボエも吹く楽器だから似てる。オーボエの音も心に残ってたんでしょうね。それで、オーボエ奏者に会ってみたいと思って練習場を訪ねたんですよ。その時に会ってくれたのが私の最初の先生なんです。

──新松敬久先生ですね。

若尾:新松先生は、すごく心のある人。僕に音楽を愛し続けさせてくれた先生です。その時も目の前でいろんな曲を吹いてくれてね。だけど、次の日から僕はまた野球(笑)。でも、また新松先生に会いたくなって。僕の実家から日本フィルハーモニーの練習場までは自転車で10分くらいだったんです。何回か行ったんだけど会えなくて、四回目くらいでやっと会えて、「おぉ、また来たんだね」って迎えてくれて。「また聴かせてくれますか?」って頼んだら、またどんどん吹くんですよ。「リードくれますか」ってお願いしたら、リードもくれたんです。

──素敵な話ですね。

若尾:そのリードを家に帰って両親に自慢して、「オーボエ買ってくれない?」って頼んだんですよ。僕の父は教育楽器の販売をしていたので楽器の相場がわかるんですが、オーボエは圧倒的に高い。なぜならば当時は国産がなかったから。一番安いので13万円なんです。しかも、どこのデパートに行ってもないから、新松先生に「オーボエはどこで買えますか?」って聞いたら、銀座の山野楽器で買えるとおっしゃったんで、初めて一人で銀座に行きました。売ってるところはわかったけど、両親はどうしても買ってくれないから、「ウチに来て説得してください」って新松先生に頼みました。

──すごい熱意(笑)。

若尾:オーボエは僕にとって趣味なんですね。野球、陸上、ラグビーしかやってこなかった運動少年が、唯一、他のことに興味を持った。リコーダーじゃなくて、オーボエに向かっている。もうその時は本能だけで動いてましたね(笑)。

──新松先生は来てくれたんですか?

若尾:もちろん来てくれました。両親も音楽学校を出てますから、日フィルのソロオーボエ奏者が家に来るなんてビックリですよ(笑)。母は美容院をやってましたから、急いで店を閉めて掃除をして。僕は、先生に「息子さんにとってオーボエを吹くことはいろんな意味で勉強になるって言ってください」ってお願いして、その通り言ってもらって、オーボエを買ってもらえたんですよ。それからはオーボエが野球以外の趣味になったんですね。

──野球ももちろん続いてたんですよね。

若尾:はい。高校はどうしても國學院久我山に行きたかった。当時、僕は100mを11.3秒で走れたんです。だから学校側からも野球部でもラグビー部でも入ってくれって言われて、推薦をもらえることになったんです。その時の僕の夢は、長嶋茂雄さんが巨人軍の監督をやっているうちに巨人に入るということでしたから、高校3年間頑張って巨人に入ろうって決めてたんです。推薦を受けるってことになって、いろいろ審査があるんですけど、その時に練習の前でも後でもいいからオーボエを一時間吹かせて欲しいっていう条件を出しました。結局、オーボエはやめて来てくださいってことになったんで、野球をあきらめてオーボエを吹くことを選んだんです。

──その頃からアメリカ5大オーケストラでオーボエ奏者になるっていう夢を持っていたからですか?

若尾:周りにはそう言ってましたけど、一番の夢は巨人入団だったんですよ。今でも、どうして野球をあきらめてオーボエを選んだのか、自分でもよくわからない。オーボエ奏者になるよりも、絶対に野球選手になりたかったのに。

──オーボエをあきらめるっていう選択肢もあったのに。

若尾:自分が情熱を持っているものを無視されて、単純に「やめてくれ」って言われたことで、野球への熱が冷めたのかもしれないね。あと運動の世界って先輩後輩の縦社会ですよね。失敗したらウサギ飛びをやらされるとか、そういうのも好きじゃなかった。

──その後はオーボエ奏者になるという夢に没頭したわけですね。

若尾:はい。野球をやめた時点で、すぐにアメリカに行こうと思っていました。でも國學院久我山は推薦入学で、受験もしていないのに、学校を休んでアメリカに留学させてくれなんて言えないし、どうしても運動をしながらオーボエを吹きたかったから、運動部が強い高校を探したんです。この学校に入学するときにもやっぱり条件を出しました。

──どんな条件ですか?

若尾:1978年3月にボストン交響楽団が来日してるんです。僕は中3で、もう野球をあきらめたあとだった。その時、小沢征爾さんにも会っているんですが、首席オーボエ奏者のラルフ・ゴンバーグ氏にオーボエを聴いてもらう機会があったんです。そうしたら、「タングルウッド(マサチューセッツ州バークシャー郡レノックスとストックブリッジにまたがる地。ボストン交響楽団の夏期の活動拠点)に来い」って言うんですよ。でも、そこに行くには、7月と8月の二ヶ月間が必要だった。どうしても学校を休まなければいけないんです。僕はすぐにでもアメリカに行きたかったけど、12月に野球を辞めて、翌年の4月にはアメリカに行きたいなんて言っても、まぁ無理ですよね(笑)。で、高校入学の面接で「君はどうしてこの学校を選んだんですか?」って聞かれた時に、「将来、僕はオーボエ奏者になりたいんです。絶対に学校にお返しするような演奏者になりますから、一学期の期末テストは受けずに6月20日から休ませてもらえないでしょうか」って言ったんですよ(笑)。

──高校生なのにすごくしっかりしてますね。

若尾:ははは(笑)。高1の時は間に合わなかったから、高2と高3にタングルウッドに行きました。3年になったときに「卒業証書は母が取りに来るから、3年の3学期からインターローケンアーツアカデミーっていう芸術高校に留学させてくれ」と。そうすると、高校時代だけでトータル1年くらいアメリカに留学したことになるんです。それはすごい経験になるじゃないですか。その後、マンハッタン音楽院に入学して、ついにグローブもバッドも捨ててオーボエだけになって、英語も話せない中、がむしゃらに頑張ってました。でも、野球をやってたほうが良かったなぁって思いは、24歳くらいまでありましたね。

──やっぱり野球はあきらめきれなかったんですね。

若尾:もちろん、オーボエは大好きだったんですよ。劣等感もなかったけど、寂しい時とか、目的を失った時に思うんですよね。僕は巨人がすべてでしたから、野球をやっていれば日本人の中で活躍できていたんです。でも、外国に行くっていうことは、自国の楽器ではない楽器を持ってアジア人が西洋に行って、本場の人たちと競争しあうわけじゃないですか。お金もかかりますし、僕の実家は裕福ではないから、本当に貧乏でしたよ。ニューヨークの72丁目にパパイヤっていう有名な店があって、そこのホットドッグとシェイクを頼むと2ドルくらいでお腹いっぱいになるんです。大きな缶詰とパスタを買って、それだけで一週間しのいだりね。22歳で今、野球をやってたら一億円選手なのにって思いました(笑)。

──その思いを振り切れたきっかけはボストン交響楽団に入れたことですか?

若尾:はい。

──オーディションもすごく大変だったんですよね。書類審査だけでも200人とか。

若尾:そう。首席のオーディションだったんだけど、僕は副首席として入団したんです。「君はまだ若いから」って言われてね。'87年、'88年、'89年とオーディションをやってたんだけど、誰も通らなくて、4年目でようやく僕が受かったんです。これは僕の自慢。過去の栄光ですけど(笑)。

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