【2014年グラミー特集】あのVIPアーティストにこんな下積み時代が?苦難と栄光への道のり

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まもなく発表される第56回グラミー賞ノミネーション。キラ星のごときスーパースターが歴代の受賞者に名を連ねているが、世界の音楽シーンの最高峰とも言える栄誉ある賞だけに、受賞までの道のりは簡単ではない。

◆Fun.画像

昨年、ロック・バンドとして史上初めて主要4部門(アルバム賞、レコード賞、楽曲賞、新人賞)にノミネートされ、最優秀楽曲賞と最優秀新人賞を受賞したFun.。フロントマンのネイト・ルイスが19歳で前身バンドであるザ・フォーマットをアリゾナ州フェニックスで結成したのが2001年だった。2枚のアルバムをインディーズから発表し、アリゾナ周辺ではそこそこの人気を得たものの、結局2008年には解散。同年ジャック・アントノフとアンドリュー・ドストとともにFun.を結成、翌2009年にデビューアルバム『エイム・アンド・イグナイト』をインディーズでリリースするものの、なかなか芽が出ない。そして2012年2月にセカンド・アルバム『サム・ナイツ ~蒼い夜~』で、ついにメジャー・デビュー。シングル「ウイ・アー・ヤング」は全米チャート1位、アルバムが全米チャート3位まであがる大ヒットとなって、ついにブレイク、翌年のグラミー受賞となったわけだ。前身バンドの結成から数えて12年目。ネイトは31歳となっていた。「新人」というのも失礼なキャリアの持ち主だが、それまでの長い下積みに耐えての栄光だけに、ここが真のスタートラインという気持ちも、彼らには強かったに違いない。

「アンドリューがマジでゴミ箱から拾い食いしていたこととか、床に寝ていた日々とか、ライヴをやって、観客に泊めてくれと頼んだこととか…そういった全てが、俺たちをここまで連れて来てくれたんだ」

ネイトはこう振り返る。とはいえ、そうした苦労は、インディーズ・バンドであれば誰でも経験していることだ。日本やイギリスと違って国土が広く、全国的なメディアが少ないアメリカでは、カネもコネもない叩き上げのインディーズあがりは、ライヴハウスまわりなど地道な活動を積み重ねることでしか成功への道はない。そうした中で消耗し消えていくバンドも多い中、Fun.が成功を手にしたのは、絶対に諦めない意志、楽しむこと(Fun)を忘れない心、彼らを信じて支えてきたオーディエンスゆえだろう。特筆すべきは、長い下積みの間も奇跡的に失われず、それどころかさらに磨きぬかれたピュアでイノセントなポップ・センスだ。売れたいがためにセルアウトしたような下品さがない。長い下積みの垢がない、稀有な存在なのだ。

一方、昨年の最優秀レコード賞を「サムバディ・ザット・アイ・ユースト・トゥ・ノウ ~失恋サムバディ (feat. キンブラ)」で受賞したオーストラリア出身のゴティエ。彼もまた30歳を過ぎての受賞だったが、本国オーストラリアではすでにダブル・プラチナム・アルバムを獲得するほどの人気者だった。彼の場合、2003年にデビューするまでのキャリアが異色だ。高校時代から日本語を学び始め、メルボルン大学で本格的に専攻し、日本でホームステイまでしたという、大の日本贔屓なのだ。そのため今でも日本語が達者で、来日公演も流暢な日本語で観客を魅了したのである。そうした異文化経験が、彼のポップ、ジャズ、民俗音楽、実験音楽など幅広いクロスカルチュラルな要素を形作った要因と言える。

そして女帝マドンナだ。すでに何度もグラミーを受賞し、米経済誌の「2013年 最も稼いだミュージシャン」にも選ばれた大物も、1984年、26歳の時に「ライク・ア・ヴァージン」が大ヒットするまでは、過酷な下積みの連続だった。実母を早くに亡くし、継母との確執を経験。1977年に19歳で単身ニューヨークに出てきてからは、ダンサーを夢見て寝るところにも困るような極貧生活を送り、お金のためにヌードモデルやアダルトフィルムへも出演。レイプ被害にもあったことがあるという。

最底辺の生活を送り成功への野望をぎらつかせていた無名時代。だがだからこそ、彼女の表現や活動の基礎には、つねに弱者からの、マイノリティからの視点がある。彼女の音楽性の基盤となっているダンス・ミュージックの革新的な動きは、常にマイノリティの人びとが集うところから起こっている。マドンナはそれに長い下積み経験で気づいたのである。

Text:小野島大/Photo:WireImage

『生中継!グラミー賞ノミネーションコンサート』
12月7日(土)午前11:50~WOWOWプライム

◆WOWOW『生中継!グラミー賞ノミネーションコンサート』サイト
◆WOWOW×BARKS2014年グラミー特集チャンネル
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