<パンクロックの封印を解く>“東京ロッカーズ”の全貌に迫る『ROCKERS[完全版]』

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1978年、失速した日本のロック・シーンを自らの手で打破するためにミュージシャンたちが集結した。FRICTION、LIZARD、Mr.KITE、MIRRORS、S-KEN…。S-KEN STUDIO、下北沢ロフトをはじめ日本各地でギグを繰り返したそのムーヴメントは、“東京ロッカーズ”と呼ばれ衝撃を与えた。

◆パンクロックの封印を解く!スペシャル映像

それから30年あまりが過ぎ、“東京ロッカーズ”は伝説となったが、今なおその衝撃は色あせない。映画は、“東京ロッカーズ”のギグを中心に、同じ時期を疾走したPAIN、SPEED、SS、自殺、81/2といったバンドや、来日したストラングラーズのスタジオ・ライブを見つめる。

恒松正敏は身を捩るようにレスポールをかきむしり、タクシードライバーであるPAINのギタリスト入村は車中でインタビューを受ける…。FRICTIONのレックは言う。「東京は、いっぱいエネルギーを吸っているんだけど、外に向かって発射していないんだよ。俺は発射させようと思ってる」。

政治の季節は終焉し、物質的に生活を豊かにすることに邁進した70年代の後半。肥大し続ける都市“東京”。ロックは急速に商業化していた。LIZARDのモモヨは、「俺が生きているのはだいたい下町だし、そういう所には、心を持っていない機械みたいな人間がいっぱいいる。そういう人たちの多くは悲惨な生活をしてるし、時間に追われている」と言い、SPEEDのケンゴは、「(海外のパンクの)レコードは割ってくれ」「ここ(東京)に足を着いているんだという事さえね、認識すれば」と苛立ちを隠さない。

モモヨは、“今”を記録するために“歌っている”と言う。われわれの生活は、「こういうロボットみたいな生活なんだ」と。「なんでこういう金にならない音楽やってんの?」と問うと、MIRRORSのヒゴは、その問いに答える。「ただ流されるだけで終わってしまうから」。「誰に君の音楽を聞かせたい?」。モモヨは答える。「俺なんかが住んでる近所の、要するにアナタとかボクとかよりは、もっと悲惨な生活をしている人たち。それと子どもたち。ロックンロールっていうのはガキとかさ、そういう奴らのモンでしょ」。

彼らは、歌ったのだ。ロックンロールをわれわれの手に、ガキたちの手に取り戻すために。そして、今、ロックンロールは誰の手に握られているのだろうか? 冒頭、この映画がクランクインしてからアップするまでの間に報道された“自殺した35人の子供たち”の名前が、次々とクレジットされる。ロックンロールは、彼らのためにあるのだ。

RCサクセション、BOφWY、ラフィン・ノーズなどのライブビデオやPVを制作、日本のロック・シーンを撮り続けた津島秀明。ミュージックビデオのプロデューサーとして日本の第一人者である津島監督が、もはや伝説となったムーヴメント“東京ロッカーズ”を中心としたバンドのギグを記録したドキュメンタリー『ROCKERS』。

94年、津島監督は急逝。それまで行方不明とされていたフィルムが発見された。撮影と編集は、カメラマンとして活躍し、佐野元春のツアーを中心とした映画『NO DAMAGE』を監督、『Y.M.O.PROPAGANDA』の撮影で知られる井出情児。冒頭のアニメーションは、後年JAGATARAなどのジャケットを担当したイラストレーター、ザッパ・フリークの八木康夫。89年に発売されたビデオには、ストラングラーズの出演シーンがカットされたが、今回は本人らの承諾を得て、その演奏シーンを含む[完全版]として30年を経て甦った。

◆映画『ROCKERS[完全版]』フォトアルバム

◆映画『ROCKERS[完全版]』
製作・監督:津島秀明 撮影:井出情児ほか 編集:井出情児 音声:山浦正彦ほか 制作進行:柿沢健次郎ほか タイトル&アニメーション:八木康夫
出演:FRICTION、LIZARD、Mr.KITE、MIRRORS、PAIN、S-KEN、SPEED、SS、自殺、8 1/2、THE STRANGLERS
提供:トランスフォーマー 配給:トランスフォーマー+スローラーナー
(ドキュメンタリー作品/1979年/日本/カラー/デジタル上映/72分)
(C)Reiko Tsushima & Magnet Co.,Ltd.

■監督プロフィール
津島秀明(つしま・ひであき)
1949年、東京都生まれ。フォークナーを愛好、フランク・ザッパを盲愛し、法政大学英文科在学中より、バイトでフジテレビ系の制作会社、新制作でドラマの ADとして働く。そこで尊敬する大先輩「北の国から」の監督、杉田成道と出会い、影響を受ける。その後、フジ制作に移り、バラエティ、音楽番組でディレクターとなる。78年退社。その年、映画『ROCKERS』の制作を始め、79年完成。その後、スタジオ・アルタで数々のライヴ・イベントをプロデュースし、1981年「ベストヒットUSA」(テレビ朝日)を立ち上げ、 1987年、伝説の「PURE ROCK」(TBS)を制作する。89年、アミューズ入社。利重剛監督『サジ ZAZIE』(89)、金田龍監督『満月のくちづけ』(89)、桑田佳祐監督『稲村ジェーン』(90)などの作品にプロデューサーなどで関わる。その後独立。サザンオールスターズ、BOφWY、THE ALFEE、甲斐バンド、RCサクセション、A.R.B、子供バンド、BEGINなど数多くのミュージシャンのLive Viideo/PV、VPを制作した、日本のミュージックビデオの第一人者である。94年、惜しまれながら急逝。

■ソング・リスト
LIZARD:デストロイER
8 1/2:CITY BOY
SS:Mr. TWIST
Mr.KITE:CRAZY OR LAZY
PAIN:リズムの時代
自殺:ぶた
FRICTION:CRAZY DREAM
SPEED:BOYS I LOVE YOU
MIRRORS:PASSENGER
MIRRORS:環七
S-KEN:ぶちやぶれ
THE STRANGLERS:HANGING AROUND
THE STRANGLERS:DEATH AND NIGHT AND BLOOD (YUKIO)
LIZARD:マシンガン・キッド
SS:コカ・コーラ

■出演バンド・プロフィール

FRICTION
1978年、ニューヨークでリディア・ランチが率いるTeenage Jesus&the Jerksに在籍していたレックとThe Contortionsに参加していたチコヒゲが帰国。元ブロンクスのラピスとFRICTIONを結成。80年に、坂本龍一のプロデュースの1stアルバム『軋轢』でメジャー・デビューする。当時のメンバーは、レック(vo&b)、恒松正敏(g)、チコヒゲ(dr)。その後、メンバー・チェンジを繰り返しながら、『SKIN DEEP』『Replicant Walk』『Zone Tripper』などのアルバムをリリース。その音楽は、日本のパンク・ロック・シーンだけでなく、その究極と呼べるほどに研ぎ澄まされた、クールでアグレッシヴ且つメタリックなサウンドは世界レベルで高く評価を受けている。2006年、レック(vo&b)と元ブランキー・ジェット・シティーの中村達也(dr)の二人編成によるFRICTIONのライブが行われ、リズム隊のみによる新しい編成によるFRICTIONがスタートし現在に至っている。

LIZARD
10代から音楽活動をはじめたモモヨが、エレクトリック・モス、紅蜥蜴などを経て、78年に結成。80年代の日本のパンクロック・シーンにおいてカリスマ的な存在となる。THE STRANGLERSのジャン・ジャック・バーネルのプロデュースによりロンドンで録音された1stアルバム『LIZARD』(79)では重量感のあるリズム隊を主軸に、スペーシィなキーボードが縦横無尽に炸裂するテクノ・ポップ寄りのニューウェイヴ・サウンドを展開。モモヨの痙攣するようなビブラートがかったヴォーカルは、近未来都市生活と下町への憧憬を同居させた詞世界を描き出した。「リザード・アーミー」と呼ばれるサポータ ー組織を従えて数多くのギグを展開。また、シンセサイザー、ヴォコーダーなど電子機器を積極的にサウンドに取り入れたことによりサイバーパンクの始祖として知られている。2008年末には初期メンバーのワカ(b)、コウ(key、dr)を迎えた新生リザードが始動。併せて10枚組のCDコンプリートBOX(通称:白いアルバム)の発売を予定。

Mr.KITE
パティ・スミスに触発されるように新宿?月堂にたむろしていたフーテン少女ジーン(vo)を中心に結成された。都会の片隅から世間に向けられるシニカルな詩と、それに絡みつくワクのギター。ジーンは、ストーリート・パンクの女王と評された。07年、処女詩集「荒涼天使たちの夜」を発表。現在は、ジーン+荒涼天使として活動する。

MIRRORS
77年から79年のわずか2年間の活動期間の中で、自分達にとってのリアルな東京を、パンクというストレートな表現形態で昇華させた。東京で最初の自主パンク・シングル・レーベル「ゴジラ・レコード」を発足させ、自身のMIRRORSを始め数々の新しい音楽を紹介した彼らの功績は偉大である。ゴジラ・レコードによって今日のインディーズ・シーンが生まれたと言っても過言ではない。中心メンバーのHIGOは現在もDipAura , Ijar Connect 渋さ知らズなと多岐に渡って活動。

PAIN
音楽評論だけでなく、音楽プロデュース、翻訳、映画評論、運勢鑑定、DJ、ミュージシャンと多岐にわたって活動する鳥井賀句が率いるバンド。メンバーは、鳥井賀句(ガク)、入村彰一、中川シン、津島ヒロ。

S-KEN
ライター、フリー・エディター、コーディネーターとして活躍していたS-KENは、自らリーダーのバンドを結成。1978年7月から8月に自分のスタジオであるS-KENスタジオで毎週日曜日にFRICTION、LIZARD、MIRRORS、Mr.KITEらと“東京ロッカーズ”と題したライヴ・パフォーマンスを開催。新宿ロフトなどを中心に名古屋、京都、久留米、福岡、小倉と各地でギグを展開。80年代は、S-KEN&HOT BONBONSとして活動する一方、カメレオン・ナイト、東京ソイ・ソースといったイヴェントを主宰。その後は、ボニー・ピンクやPE’Zらのプロデューサーとして活動する。

SPEED
セツ・モードセミナーの同級生であるヴォーカルであるケンゴと元村八分の青木眞一によって1976年に結成された伝説のヘヴィ・ロックン・ロール・バンド。ストゥージズ等に影響を受けたサウンドを持ち、当時イギリスで勃興しつつあったパンクムーブメントに日本で呼応した最初期のバンドである。SPEEDはMIRRORS、Mr.KITEとともにジャンプロッカーズと題したシリーズ・ギグを開催し、その活動は1978年から始まる東京ロッカーズのムーヴメントにつながった。ケンゴ以外のメンバーには変動があるが、後に恒松正敏(元FRICTION)が結成するE.D.P.S.のヴァニラ(b)、ボーイ(dr)や、青木とともにFOOLSに参加したギタリスト川田良が在籍していた。

SS
神戸出身のハードコア・パンクバンド。1977年から1979年のわずか2年という活動期間であったが、「ラモーンズより速い」というそのキャッチフレーズ通り、初期衝動が暴発する彼らの音楽は、その後の関西パンクシーンに多大な影響を与えた。フィンガー5「恋のテレフォン・ナンバー6700」の高速カヴァーもある。現コンチネンタル・キッズの前身のスピード・パンク・バンド。メンバーは、トミー(vo)、しのやん(g)、ツヨシ(b)、タカミ(dr)。

自殺
金沢で活動していたヴォーカルの川上浄が上京し、78年に結成したセカンド・スーサイドを母体に、ギタリストの栗原正明(ジョージ)が加入して結成された。ビ・バップ・デラックスを思わせる栗原のギター。イギー・ポップ等に影響された川上は、センセーショナルなステージを繰り広げた。79年の解散後、川上とジョージはFOOLSの伊藤耕とコックサッカーズを結成。ジョージの影響を受けたミュージシャンは多い。ジョージは、現在、北澤組の小山耕太郎らとWAX、藻の月などのバンドで活動中。

8 1/2
泉水敏郎(dr)と中嶋一徳(b)らが結成したWINKが78年改名し8 1/2となる。その後、久保田真吾(vo)と上野耕路(key)が参加。久保田のボーカルと上野の音楽性によって、そのサウンドには独自性がもたらされたと言われている。後に自殺に参加する中嶋の脱退やハルメンズへの参加のため上野,泉水が脱退するなど幾つかのメンバーチェンジを繰り返し、80年3月解散。上野は、8 1/2のファンであった戸川純とのゲルニカを経て、ソロ活動、映画音楽など多岐に渡る活動を展開。近年、盟友久保田真吾とのユニット“捏造と贋作”でも活躍している。

THE STRANGLERS
1974年ヒュー・コーンウェル(g、vo)が、ジャン・ジャック・バーネル(b、vo)、ジェット・ブラック(dr)、デイブ・グリーンフィールド(key)らを誘いストラングラーズを結成。グループの斬新で特異な個性に人気が集まり始る一方で、先鋭的な暴力性・狂気が恐れられてもいた。その知性と相反する暴力性・狂気との葛藤こそが彼らの特異な音楽性の源泉であり魅力であるともいえる。1990年にヒュー・コーンウェルが脱退してソロ活動を始めたが、ストラングラーズは他の3人のオリジナルメンバーを中心に現在も活動中。『ROCKERS【完全版】』には、79年2月に来日したストラングラーズのスタジオLiveと、オフショット、J.J.バーネルへのインタビューが収録されている。また、LIZARDの1stアルバムは、ストラングラーズのJ.J.バーネルのプロデュースによってロンドンで制作されている。

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